久米さんの科学映像便り
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プロフィール
科学映像館理事長の久米さん。映像遺産を守り、生かすための日々!
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カテゴリ: 三水会 便り(5)( 21 )
新配信映画は「水管理とプランクトン」
水管理とプランクトン
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製作:学習研究社 企画:水質源開発公団 映像提供:東京文映画
カラー 20分19秒
私達の生活に関連の深いダムや湖の水質管理とプランクトンの関係を解説した作品。
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by rijityoo | 2017-01-19 12:48 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
本日の配信映画「ナブラ -赤道直下にカツオを追う一本釣りの漁師達- 」
ナブラ -赤道直下にカツオを追う一本釣りの漁師達-
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関連ページ

農業・漁業・暮らし | 黒田プロダクション

作品概要

製作・企画:黒田プロダクション
1983年 カラー 60分

1982年11月から12月までの55日間、三重県尾鷲市三木浦港所属の遠洋カツオ一本釣り漁船、第2慶福丸(434トン・三鬼哲漁労長・乗組員38名)が、赤道直下のマーシャル諸島沖で大きなカツオの群れに当たったのを筆頭に、計273トンもの大漁で終えて帰港するまでを映像に収めた作品。

(漁師兼カメラマン 黒田輝彦氏のコメント)
一つの大きなナブラで、カツオを釣っては魚倉に入れ釣っては魚倉に入れ、一日で70トンの大漁となりました。乗組員は全員くたくたになり口をきく元気もありませんでした。

出漁中、マーシャル諸島の西の瀬で、大きなナブラ(カツオの群れ)を見つけました。まるで釣られるのを待っているかのように本船の周りをゆっくりと泳いでいました。
三鬼船頭(漁労長)は「こんなナブラはめったにないぞ」といい、私は急いでブリッジの上の見張り台に昇り、フィルムの残りを気にしながら息を弾ませ撮影を続けました。
空撮に似たこのときの映像は他社に類似がなく、多くのビデオ作品やテレビ番組などで使用されています。

協力

慶福丸(三重県尾鷲市三木浦町)

スタッフ

製作・監督・撮影:黒田輝彦
作曲:大久保正人
録音:大石和也
録音助手:戸部政明/河野雄司
ネガ編集:加納宗子
タイトル:スタジオ・ビック
録音所:青山録音センター
現像所:ソニーPCL
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by rijityoo | 2016-09-08 13:53 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
三水会便り「20世紀を変えたバルト3国の再独立」その1
2016年1月20日      
                講演者  岡本 好廣氏
岡本好廣氏プロフィール
早大卒・学生時代から生協運動に従事、
日本生活協同組合連合会常務理事、
(財)生協総合研究所専務理事を歴任し、
現在、協同組合懇話会常務委員、
ロバアト・オウエン協会理事


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                <目 次>
はじめに
Ⅰ バルト3国の概況と歴史的経過
 1バルト3国の民族と地理的環境
 2大国に翻弄し続けられた3国
3「人間の鎖」による3国の再独立
4バルト3国を巡って感じたこと

                    
                    

はじめに
スターリンが唱えた「一国社会主義革命」の下にソ連への隷属を強いてきた体制は1985年以降弱体化し、社会主義陣営内でソ連共産党指導部への批判と造反になって現れた。そのきっかけはゴルバチョフの「グラスノースチィ」(情報公開)と「ぺレストロイカ」(立て直し、再編)であった。これに対してエリツィンの共産党解体論が力を増し、1989年に入ると東ヨーロッパで次々に社会主義政権が崩壊した。

しかしこれらの国々はソ連の衛星国ではあってソ連そのものではなかった。その点1940年に占領されて、ソ連の属州扱いされてきたバルト3国が1989年に200万人が参加したと云われる「人間の鎖」の示威行動で独立した意義は大きい。民衆の力で70年ぶりに果たした再独立であり、国際世論の支持のもとソ連崩壊にとどめを刺した。タイトルを「20世紀を変えたバルト3国の再独立」としたのはそのためである。民族も言葉も違う人々が600㎞に渡り手を繋いで「人間の鎖」という「静かな革命」を成し遂げたのである。実際に3国を訪ねてみたいと思い、昨年5月に10日間の旅をした。見てきたことを含めて「バルト3国の再独立」について考えてみたい。

Ⅰ バルト3国の概況と歴史的経過


1 バルト3国の民族と地理的環境
狭義のバルトはエストニア、ラトビア、リトアニアの3国を指し、広義にはこの3国にバルト海を隔てたフインランド、スウェーデンに陸続きのロシア、ベラルーシ、ポーランドを加えたものを云う。ロシアは地続きの国土の他、リトアニアが独立した結果飛び地になった領土カリーニングラード(旧ドイツ領ケーニヒスベルク)があって、地勢的関係が複雑である。バルト3国の面積は175.000㎢、人口675万人の小国である。エストニアはフインランドと同じウラル=アルタイ語族に属し、ラトビアとリトアニアはインド=ヨーロッパ語族でお互いに言葉は通じず、ソ連占領下ではロシア語を共通語にしていた。バルト3国は中世にはドイツ騎士団の植民活動でドイツ人の侵出が続いて、ハンザ同盟の都市が築かれ、北方やロシアの物資の集散地になってきた。

3国は地理的環境から西方のゲルマン人、北方のスラブ人の圧力を受け続けてきた。スウェーデンの侵略に曝された時期もある。リトアニアはポーランドに同化した時期もあった。その後帝政ロシアの支配が続きロシア化が進められた。しかしロシアに支配され続けられながらも3国の意識はバルト海を挟んだ西側にあった。ハンザ同盟の基地として海運や通商、そして製薬等工業化の道を辿ってきた。いずれも教育に熱心で、3国には歴史の古い有名な大學が存在している。北の窓口とも云えるフィンランドを、3国ともロシア帝国とソ連に圧迫されてきた立場で共感をもって接している。実際にヘルシンキはエストニアの首都タリンをフエリーで結ぶバルト3国の玄関口の役割を果たして、毎日大勢の人々が行き来している。

2 大国に翻弄し続けられた3国
ロシアによるバルト海地域の支配は1720年頃から始まり、これがロシア帝国台頭の時期と機を一にしている。バルト地域は伝統的にバルト・ドイツ人と呼ばれるドイツ人貴族が勢力を持っていた。この時期帝政ロシアはバルト・ドイツ人に地方行政を任せ、後半期は中央集権体制に移行しロシア化を進めたが、引き続き彼らが行政を担った。ロシアにとって西方に侵出して西欧への窓口をもつことは長年の希望であった。それを実現したのはピヨートル大帝であった。そしてバルトに近い湿地帯に難工事を押してサンクト・ペテルブルグを建設して首都にした。17世紀末にスウェーデンがバルト地方に勢力を伸ばしたが、18世紀に入ってロシア帝国が撃退し、東西に跨がる大帝国を形成したのである。それにも関わらず18世紀から19世紀の前半にかけてロシア帝国はバルト地方を手に入れながらもゆるやかなロシア化政策をとっていた。だが、19世紀後半に登場したアレクサンドル3世はロシア化政策で望んだ。

ロシアの対外貿易の拠点にされたバルト海東岸の主要な街はロシア経済に完全に組み込まれると同時に、地方では土地なし農民が急増し、都市では新しく労働者階級が生まれた。同時にロシア本国では帝国運営に綻びが生じ、日露戦争での劣勢と国内での相次ぐ労働者と兵士の反乱によってロシア帝国は急速に力を失っていった。こうしたなかで1917年にロシア革命が成功し、レーニンの革命政権が民族自決権を保証したこともあって、急速に独立の機運が高まった。3国は相継いでロシアと平和条約を締結し、翌1921年には国際連盟に加盟し、独立国としての憲法を制定した。さらに1926年から32年までの間に3国それぞれにソ連との間に不可侵条約を締結し、これによって長い間苦しめられてきたロシア、ソ連との間に平和な関係が築かれるかと思われた。しかしレーニンの死後政権を握ったスターリンは「一国社会主義革命」を掲げて民族自決権を否定、ソ連邦に結集しその体制を守ることが使命だとした。

1939年にヒトラーとスターリンの間で独ソ不可侵条約が締結され、付随する秘密議定書にドイツとソ連によるポーランド分割と、バルト3国のソ連併合を認める条項があった。この年の9月にドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まった。ソ連は東部からポーランドに侵攻し、翌1940年にはバルト3国を占領して8月には併合を強行した。ソ連はバルト3国は各国の意向によらずにソ連との間に相互援助条約を締結させて軍隊を駐留させ、ソ連邦に組み入れることについての応諾を迫った。これは3国の意志に関係なく独ソ不可侵条約の秘密協定によって実行された。直前にフインランドがソ連の侵攻によって第一次フィン・ソ戦争を戦い、湖沼と森林の多さを武器にゲリラ戦で勇敢に戦ったが、国力の違いは如何ともしがたく、敗北に追い込まれたのを目の辺りにしていた。1940年3国は相次いでソ連の最後通牒を受け入れてソ連邦に帰属させられた。日本による朝鮮併合と同じである。              
同時にエストニアとラトビアの大統領はソ連に連行された。リトアニアの大統領は危うく難を逃れてアメリカへ亡命し、ここで亡くなった。こうしたソ連の暴挙はフインランドへの侵攻とともに国際連盟で取り上げられて非難されたが、ソ連は無視し既成事実になってしまった。ソ連軍による占領が進むと同時に3国の政府関係者、知識人、文化人、聖職者などを中心に多くの人々が追放され、シベリアへ送られた。その数は3国合わせて4万8千人と云われている。こうした追放はその後も続けられると同時に集団化農場が作られ、多くの農民が送り込まれた。

1940年代に入ると各地でソ連の占領に対する抵抗運動が起こり、その度毎に弾圧された。この間ドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連へ侵攻し、独ソ戦争が行われたのでバルト3国はソ連領からドイツ領へ、またソ連領へと目まぐるしく代わり、その度に国土が荒らされた。1950年代からはソ連の支持で政権を担った各国の共産党内部で改革の動きが弾圧され、血の粛正が相次いで起きた。しかし社会の底辺で静かに進んでいた抵抗運動が1988年になると3国で一斉に「人民戦線戦」の結成という形で実を結んだ、それを背景に1989の「人間の鎖」による独立運動が開花したのである。 

3「人間の鎖」による3国の再独立
ソ連のグラスノスチによってバルト3国のソ連併合を決めた「独ソ不可侵条約秘密議定    書」が明らかになった。それに基づいて併合が行われて50年目に当たる1989年に「人間の鎖」で3国の国境を越えて600㎞に及ぶ道を200万人もの人々が手を結び、ソ連邦からの離脱と独立を訴えたのであった。600㎞と云えば東京から神戸までの距離に相当する。その長い道を1人1人が手を繋いで鎖にしたのである。ソ連政府は独ソ秘密議定書の存在は認めたが、3国は自主的にソ連邦に加わったという立場を変えていない。このデモンストレーションを3国の共産党政権は中止させず、何とか穏便に終わらせようとした。リトアニアの独立運動組織サユディスは集会の数日前に「ソビエト連邦の政治的、文化的、行政的支配を受けない」として、独立のリトアニア国家を目指すことを議決した。

こうして周到に準備された運動は1989年8月23日午後7時から混乱なく実行された。これを契機に3国では様々な形で独立を訴える行動が行われるようになった。リトアニアの首都ヴリニュスでは大聖堂前で数千人の人々がローソクを持って国歌や民族の歌を唱う集会を開いた。他の場所では神父がミサを行い、教会の鐘を鳴らした。エストニアとラトビアの国民戦線は国境で集会を開き、巨大な黒い十字架に火をつけてソ連の支配と決別する象徴的な葬儀を挙行した。こうした動きを初めは静観していたソ連政府は次第に強まる3国の独立の動きに危機感を募らせ、1991年に入るとラトビア、リトアニアに対して軍隊を投入して攻撃を始めた。

こうしたなか3国では相継いで「独立の是非を問う国民投票」を実施し、いずれも圧倒的多数で独立の意志を確認した。ソ連政府に対する国際世論も次第に厳しさを加えた。この間モスクワでは保守派が起こしたクーデターが失敗し、共産党政権が崩壊した。3国は相継いで独立を宣言し、ソ連も独立を正式に承認した。こうしてバルト3国は半世紀ぶりに独立を回復した。この後の3国の動きは速く、独立10日後に国連加盟を実行すると同時にEUへの加盟申請を行った。

続いて1994年にはNATOとの間で「平和のためのパートナーシップ協定」を締結、1993年までに3国からロシア軍の撤退が完了した。次いで1995年にはEUとの準協定(欧州協定)に調印した。1995年は相継いで金融危機を迎えたが、これを短期間で克服した。そして2004年にはNATO、EUの2つの国際機関への加盟が実現し、晴れて西側の一員となった。民族や言葉が違う3国が完全に歩調を合わせて再独立を成功させたのは、長い歴史を通じて3国が争うことがなかったからである。通常国境を接している国は摩擦が多く、往々にしてそれが戦争になることがある。しかし3国の間にそういうことは起こらなかった。リトアニアとポーランドの間では争いがあって領土を奪い合うこともあったが、3国の間は平穏であった。

3国とも古くから教育に力を入れ、理性的に行動することが身についていたように感じられる。文化面では音楽を通じて3国の絆が強められてきたことが挙げられる。大規模な合唱祭は世界的に有名である。1988年にはタリン郊外の野外音楽堂に25万人という空前の大観衆が集まって歌の祭典を開いた。ここでは非公式の国歌と云われる「わが故郷はわが愛」が歌われた。ラトビアやリトアニアからも人々が集まり、これが翌年の「人間の鎖」を成功させる原動力に繋がったのである。合唱は人々の心を一つにし、団結の絆になる。バルト3国の人々は合唱を通じて心を通わせ、内に秘めた独立の願いを強くする。「歌とともに闘う革命」と呼ばれる所以である。
                   
4 バルト3国を回って感じたこと
帝政ロシア末期の1904年、バルチック艦隊は属領としていたラトビアのリガ近くの軍港から日本に向かった。日本の連合艦隊と戦うためである。バルチック艦隊は7ヶ月の長い航海の後日本海会戦で壊滅し、その後革命によって帝政ロシアは消滅した。この頃フインランドとバルト3国は自分たちを脅かしている帝政ロシアに反対して蔭ながら、日本を応援していたようである。そういうことがあって今でもバルト3国は日本に好意的である。

エストニアは大相撲の把瑠都の出身国として親しみをもっており、ラトビアは日本文学の人気が高く、日本語教育が盛んである。ラトビアで開催されている日本語弁論大会は既に10回を超えているという。リトアニアは日本の領事代理として多くのユダヤ人を救ったことを知らない国民はなく、日本への敬愛の念が強い。外務省は広報に「バルト3国と日本」というページを設けて、バルト3国を紹介している。それからも3国の親日の情の深さが汲み取れる。

実際に訪れて実感じたのはバルト3国は時間的にも日本に近い国だということである。距離的には遠いが、交通の便がいいので近く感じる。成田空港とフインランドのヘルシンキの間にフインランド航空の直行便が出ていて9時間半で到着する。日本からヨーロッパへ行くにはこれが最も早い。今では日本航空も共同シエア便を出していて便利である。ヘルシンキ行きは関西空港からも出ている。ヘルシンキからはタリン行きのヘリーが数多くある。2時間あまりで着くので7時間の時差があり、その日の内にエストニアへ入ることができる。

3国併せた距離が南北約650㎞、隣の国へ飛行機で行くには突っ切って仕舞いそうである。鉄道も発達していてロシアのサンクトペテルブルグへ行く国際列車も出ているが、便利なのはバスである。今回は「人間の鎖」の跡を偲ぶということで全行程をバスで移動した。3国ともEU加盟国なのでヘルシンキで入国手続きを済ますと出国まで一切手続きは不要である。通貨も昨年リトアニアを最後に3国ともユーロに切り替わったので両替の煩雑さがない。旅行者にとっては3国がまるで一つの国のようで違和感がない。                

次に感じたのはどの街も綺麗だということである。3国の首都タリン、リガ、ヴエルニスは揃ってユネスコの文化遺産に登録されていて、派手な看板が一切なく街の清潔さが際立っている。いずれも中世の建物が残っていて、丘からの眺望が素晴らしい。ヨーロッパでもこれだけ美しい街並みが揃っているところは珍しいように思う。

3国とも山らしい山がなく、どこまで行っても平地である。それでもエストニアは幹線道路のそばは林が続き、ラトビアでは左右の平地がどこまでも広がっており、リトアニアでは遠くに海が見えるなど、平地と云っても少しづつ違っている。共通しているのは周囲に人家が少ないことで、街らしい街は数えるくらいしか目にしなかった。この道路で多くの人が手を繋いで独立を訴えたのだと思うと胸を打つものがあった。どこまでも真っ直ぐな道なので、見える範囲でも万を数える人々が列を作ったのであろう。バスを降りて道路の端に立つとその思いが一層強くなった。

3国とも科学技術に優れ、ITや製薬の面で立派な実績を上げており、中世から有名な大学があって学術、文化の水準が高い。特に音楽では大規模な合唱祭が世界的に有名である。合唱祭のために3国の人々は頻繁に行き来しており、「人間の鎖」を成功させたのも、こうした日頃の往来があってのこと思った。昨年NHK交響楽団の首席指揮者に現在最も活躍が期待されているエストニアのパーボ・ヤルビーが就任し、大晦日の第九の指揮をした。また新年恒例のウインフイル・ニューイヤーコンサートには世界的指揮者であるラトビアのマリス・ヤンソンスが登場した。小国がこのような優れた指揮者を続いて送り出すのは珍しいことである。芸術的に優れているバルト3国の一面をうかがわせるものである。

人々は皆シャイである。タリン、リガ、ビリニュスといつた首都でもヨーロッパの田舎に居るような気持ちにさせ、それが魅力である。再独立後3国は自国語で立法、司法、行政を行えるようにする「言語法」を制定し、学校では自国語による教育を強化している。

外務省のホームページも指摘しているように3国の対日感情はいい。リトアニアでは杉原千畝が中学の教科書に出ており、領事館があったカルナスではリトアニア人が買い取って記念館にしており、近くの通りは「スギハラ・ロード」と名付けられ、駅にも標識が出ている。また首都ビリニュスの中心部にも杉原を記念するプレートが設置されている。

最近どの国に行っても多く見かける中国や韓国の旅行客は3国では目にしない。日本からの観光客も北欧や旧東欧諸国へ行く人たちに比べると遙かに少ない。観光客は年配の旅慣れた人たちが中心である。われわれのグループも総勢23人と少なかったが、これまでにいろいろな国を回って行くところがなくなったので来たという人が目立った。しかし3国揃ってこのようないい国は珍しいという感想であった。観光目的でいいから若い人にもっと行って欲しい。同時にバルト三国の歴史も知って欲しいと思った次第である。
                   
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by rijityoo | 2016-01-29 07:00 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
三水会便り「20世紀を変えたバルト3国の再独立」その2
目次
Ⅱ 杉原千畝の功績と日本外交の問題点
 1ユダヤ人救出で果たした役割
 2外交官杉原千畝が活躍した時代
(1)杉原千畝の外交官としての任地
(2)杉原千畝の特質すべき功績
3外務省の杉原追放とその後の名誉回復
4日本外交の問題点と外交の在り方

Ⅱ 杉原千畝の功績と日本外交の問題点
 1 ユダヤ人救出で果たした役割 
   
杉原千畝は国際的に最も知られた日本の外交官である。最近映画にもなったので更に広く、深く知られるようになった。「私は外交官である前に一人の人間である」と云って、ナチスドイツに追われたユダヤ人に本省の意に反して日本の通過ビザを発給したのである。
「6千人もの命を救った外交官杉原千畝の行いは、どんなに賞賛しても賞賛しすぎることはない。彼に命を救われた人々は、子、孫、ひ孫まで合わせると優に20万人を越えると云われている。20万にもの人々、その多くが日本に対し好意のまなざしを向けていることを勘案すれば、現代に生きるわれわれは、杉原の遺産の恩恵を享受しているのである。」
『戦争と諜報活動-杉原千畝たちの時代』白石仁章著 角川選書より
                    7
人間外交官杉原千畝の功績はこれに尽きていると思うが、その生き方を通じて外交官として追考してきたことの全体を辿ってみることにする。

2 外交官杉原千畝が活躍した時代
(1)杉原千畝の外交官としての任地
杉原千畝は1900年に生まれ、1919年外務省の官費留学生として日露協会学校(後のハルピン学院)に留学、卒業後在ハルピン総領事館に配属された。ロシア語の他、英語、ドイツ語、フランス語、中国語に堪能で、これらの国の情報収集に当たった。その後希望しての新京の満州国外交部へ移って建国直後の満州国の外交を担当した。しかし満州を属国扱いにする関東軍の横暴を憤り、本省へ戻った。

次に任地としてモスクワの在ソ連大使館勤務が決まったが、ソ連側に忌避されて果たせなかった。以後もソ連へ入国することを禁じられたので、敗戦後ハンガリーで抑留され、シベリアから帰国するまでこの地を踏むことはなかった。何故ソ連側に忌避されたのかは交渉で北満鉄道の売却を安値で叩いて、ソ連が挙げようとした利益を減少させたことと、諜報活動にソ連側がマークしていた白系ロシア人を活用し、引き渡し要求に応じなかったこと、そしてこのような有能な外交官が日本大使館にいたのでは困るといったことが関係していたといわれる。こういうことが外交用語で云う「ペルソナ・ノン・グラータ」(好ましからざる人間)として忌避したのである。           

この後の任地は満州の新京からフィンランドのヘルシンキ、リトアニアのカウナス、ドイツのベルリン、チェコのプラハ、ドイツのケーニヒスベルク、ルーマニアのブタペストで、それぞれの国で重要な任務を果たした。特にカウナスでは一家以外に日本人が居ないなかでリストニア領事館を設立し、後にユダヤ人へのビザ発給に力を尽くしたのである。

(2)杉原千畝の特筆すべき功績
外交官の任務の中で重要なのはインテリジェンス活動と呼ばれるものである。諜報活動とも云われ、スパイ活動をイメージされることもある。また同じスパイ活動でも公然のものと非公然のものがある。諜報活動に優れた国は以前はソ連であり、その後を引き継いだロシアである。プーチン大統領自身がKGB出身であり、対外諜報官として東ドイツに駐在していたことがあり、ドイツ語が堪能である。最近在日ロシア大使館の軍人外交官が陸上自衛隊の元東部方面総監から陸上自衛隊の重要資料を手に入れたとして、自衛隊法違反の容疑で書類送検されたが、東京地検は両者とも起訴猶予にした。「諸般の事情を考慮して」という説明は、暗に今後行われる安倍、プーチン首脳会談への考慮を示唆している。

杉原千畝は優れた外国語の能力を活かして情報収集や諜報活動に従事し、多くの功績を挙げたようである。残念ながら仕事の性格から明らかにされていることは多くない。また空襲で外務省に保存されていた資料が焼失して仕舞している。しかし杉原が関わった仕事は記録に残っているだけでも、当時の日本にとって極めて重要な内容のものである。ここでは代表的なものを2つ挙げる。

第1は満州国外交部勤務の時に担当した満鉄による北満鉄道買収交渉である。ソ連が経営していた満鉄に繋がる北満鉄道を日本側に譲渡してもいいと云ってきたので、日本は満州国外交部に交渉させた。交渉を担当したのが杉原で、ソ連側の言い値の6億2,500万円を最終的に1億4,000万円と、約5分の1まで下げさせて買収した。ソ連側が隠していた鉄道の老朽化や、買収を持ちかける一方で車両をソ連国内へ移していることなど、極秘の情報を次々に暴かれて狼狽したことが要因とされている。こうした情報はソ連政府に追われた白系ロシア人を組織して得たものである。情報収集に協力した白系ロシア人には危険な仕事であったが、杉原は命がけでこの人達を守って信頼を得た。

第2は1941年にドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連領に進駐する動きを、ケーニシスベルグ領事館で1ヶ月前に察知して外務省とベルリンの大使館へ連絡した。この時松岡洋右外相は日独伊3国同盟を結成する一方で日ソ中立条約を結んで、米英両国との戦争に備えようとしていた。杉原はヒットラーの狂気とソ連の日本への対応に疑問をもち、暗にこれらの対応を見直すよう進言していたのである。しかし外務省も在ドイツ大使館も杉原からの連絡を無視した。以後ドイツはソ連に攻め込み、ソ連は不可侵条約を破棄して満州、朝鮮、樺太に侵攻して、日本は敗戦に追い込まれた。

3 外務省の杉原追放とその後の名誉回復
1947年6月、杉原はソ連での抑留生活を終えて帰国した。それを待ち受けていたのは非情な辞職勧告であった。外務省に呼び出されて岡崎勝男事務次官(後に外務大臣を3度歴任)からリトアニア領事館時代の訓令違反が省内で問題になっているとして辞職するよう云われた。収入を閉ざされた杉原は翻訳や貿易会社のモスクワ駐在員などで生活しなければならなかった。外務省では杉原はビザと引き替えにユダヤから金を貰っていたようだから、経済的に困らないはずだとの根も葉もない噂が流れていたという。杉原に助けられたユダヤ人と子孫が問い合わせても、外務省は一切取り合わなかった。1969年にイスラエルから招待されて杉原はテリアビブへ行ったが、現地の日本大使館は無視したという。                   

その後リトアが再独立を果たしたので日本は改めて大使館を開設することになり、この問題を国会で追及されて、外務省は杉原の辞職を撤回し形だけの名誉回復を図った。杉原の生誕100年に当たる1991年に河野洋平外務大臣が幸子夫人を招いて正式に謝罪した。同時に顕彰の意志を形に残すことにして赤坂の外務省資料館に<杉原千畝顕彰プレート>を設置するとともに、その業績に関する関連資料を1階ロビーに常設展示することにし、見学者が絶えない。 
                  
                    
4 日本外交の問題点と外交官の在り方
日本の外交は相手国がどこでも通り一遍の方法で臨み、相手の言い分の間違っている点を
 臆することなく指摘する<論議外交>に弱いと云われる。外交は外国相手の交渉だからただ「ご理解戴きたい」では済まない。こういう姿勢は従属化にあったアメリカとの交渉で、長年の間に身についたものであろう。それが対中、対ソ、対北朝鮮外交に表れている。交渉であるから<情緒的>でなく、<具体的内容>でやり合わなければならない。外交交渉で日本側の印象が薄いのはそういうことではないだろうか。

トップ外交の在り方にも問題が残る。安倍首相がインドのモディ首相と会談して「日印原子力協定」を締結することで意見の一致をみたとの報道がなされた。インドは核保有国でありながら、NPT(核拡散防止条約)に加盟していない。こういう国と原発の売り込みを目的にして原子力協定を締結していいのかは疑問である。

外交官の成り立ちにも問題を感じる。最も難しいと云われた外交官試験が公務員採用総合職試験に一元化されたのは一歩前進だが、依然問題が残っている。この他の試験は外務専門職採用試験と公務員一般職員採用試験であるが、いわゆるノンキャリアー向けのものである。一般職員採用試験合格者は会計、通信、文書管理、秘書などの補助的仕事につく。他に外務省在外公館専門調査員という制度があり、2年任期で派遣先国や地域の政治、経済、文化等に関する調査研究及び館務の補佐を行うとされる。これを見る限り本省の幹部や大使館、領事館の大使、公使、領事などになれるのは、原則として総合職試験に合格したキャリアーに限られてしまう。戦前は杉原千畝のようなハルピン学院出身者や上海の東亜同文書院出身の外交官が責任ある立場を任せられる余地があった。日本外交の問題を考えるに当たっては外交官の養成方法も検討する必要がある。
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by rijityoo | 2016-01-29 06:57 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
三水会便り「20世紀を変えたバルト3国の再独立」その3
Ⅲ 再び「バルト3国」問題に戻って
バルト3国の再独立後四半世紀になる。しかしこの地域は平和が戻ったと手放しで喜べない状況になっている。昨年3月ウクライナ東部クリミヤ半島を事実上ロシアが併合した。バルト3国にはロシア系住民が多く住み、リトアニアの西にはロシアの飛び地のカリーニングラードがある。バルト3国は東にロシアとベラルーシ、そして西はカリーニングラードに囲まれている。ベラルーシの首都ミンスクにはソ連崩壊の後旧ソ連圏の結束を強めるために組織した[独立国家共同体=CIS]の本部がある。

ウクライナとロシアの関係が険悪になったのは、ウクライナがCISからの脱退を宣言してからのことである。リトアニアが独立する前はカリーニングラードは同じソ連圏だったので通行に何の問題もなかった。ウクライナで起きた問題を考えると、バルト3国とロシアの関係も憂慮される点が多い。バルト3国は戦闘機をもたず、国土の防衛はNATOに依存している。このところロシア軍機の接近が増えていて、NATO軍機のスクランブルは2004年は年1回程度だったのが、2014年は40回以上になっているという。領海近くへロシア潜水艦の接近も見られ緊張が増している。この他ロシアからのサイバー攻撃も憂慮されている。エストニアのエルベス大統領は「ウクライナ危機は宣戦布告なき戦争」によるものだとして、警戒を呼びかけている。

こうした矢先ロシアの最高検察局が、バルト3国のソ連離脱の合法性を調査し始めたという報道がなされた。バルト3国の独立を認めたのはソ連の最高意志決定機関である最高会議でなく、ゴルバチョフが作った国家会議であるから無効だというものである。同じ論法は以前ソ連がウクライナにクリミヤ半島を移譲した問題でも使われ、ソ連憲法の手続きを踏んでいないから違法であり、クリミヤは依然としてロシアのもので、これを接収したのは元に戻しただけのことだという理屈である。

帝政ロシアからソ連時代に進められてきた大ロシア主義の立場に立つプーチン大統領は、「自分はロシアの子どもたちを守る役目を担っており、国境の子どもたちも、守らなければならない。」と云い、以前ソ連圏にあった国々への関与を口にしている。

1月9日に放映されたNHKスペーシャル「ロシア復活の野望」では、ロシアが力を背景にて現状変更の試みを次々に行っていることを明らかにした。「ヨーロッパが如何に反対しようともロシアは決断しなければならない」との主張である。こうしたプーチン大統領の、強気の背景には任期があと1年になったアメリカのオバマ大統領と、EU主要国の意見の不一致を捉えた巧妙な戦略が垣間見える。クリミヤ問題の帰属はもとより、シリアのアサド政権支持でも欧米諸国と真向から対立しても主張を変えることはない。これを国民の90%もの人たちが熱烈に支持しているという背景がある。国民のなかにも「大ロシア主義」が根を張っているのである。

ロシアは今深刻な経済危機のなかにあり、デフォルトさえ憂慮されている。ロシア経済は40%以上を原油、天然ガスなどの輸出に頼っている。それが原油のだぶつきによって価格が下落し、国家経済を直撃している。CDPに占める財政赤字の比率は4.4%に及び、それを過去に積み立てた経済基金を取り崩して埋めている。それも間もなく底をつくということで事態は深刻である。膨大な国防予算が足かせになっており、特にシリアの政権を守るための軍事費が重たくなっている。ルーブルの減価は深刻で国民はインフレの重圧に苦しんでいる。

こうした状況にも関わらず強気一辺倒なプーチン大統領の対外政策は不気味である。そのとばっちりが隣り合わせのバルト3国に及ばないことを願っている。Newsweek誌によると、NATO欧州連合軍のフィリップ・ブリドラブ最高司令官は「過去数十年、欧州の安全保障の基盤となってきたルールや原則をロシアは根こそぎひっくり返そうとしている。そうなれば、ロシアはもはや欧州の問題ではなくて、世界の問題だ」と云っている。折角独立と平和を取り戻したバルト3国の独立と平和を守るために、国際世論の喚起が求められる。

[参考資料]
『物語 バルト三国の歴史』志摩園子著  2004年7月刊 中公新書
『北の十字軍』      山内 進著  2011年1月刊 講談社学術文庫
『6千人の命のビザ』 杉原幸子著  1990年6月刊 朝日ソノラマ
『その時歴史が動いた』  NHK取材班 2001年8月刊 KTC中央出版
『杉原千畝と日本の外務省』杉原誠四郎著1999年11月刊 大正出版
『杉浦千畝ガイドブック』 リトアニア杉原記念館編  2013年第3版刊
『戦争と諜報活動-杉浦千畝たちの時代』  
白石仁章著  2015年7月刊  角川新書 
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by rijityoo | 2016-01-29 06:54 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
三水会の忘年会の参加者がついに10人
三水会の忘年会、とうとう参加者が10人に。平均年齢83歳のメンバーではいたしかたないかも。今日も奥さんの看病のため、一人が退会とのこと。
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by rijityoo | 2015-12-16 22:52 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち」その8

目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d、昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉


戦後まもなくの19496月国立国語研究所第1研究室の一行7名が10数日の計画で八丈島言葉の調査研究に赴いた。翌年3月に発行された調査報告書によってその様子を詳細に知ることができる。当時の国語研究所の目的は明確なもので、「標準語を普及させる」ことであった。すなわち「標準語を話す度合いをたかめる」ためどんな対策が必要なのかを立案し実行することであった。島言葉の研究保存が目的ではなかった!


八丈島を調査対象の第
1に選んだ理由も書かれている。八丈言葉は共通語とはかなり違った特殊な言語であり、独立した生活体をしているので、共通語を話す度合いを調べるのに適していたからだ。

 
もしこの調査の結果「共通語を話す度合い」とそれをきめる要因が明らかになれば、「共通語を話す度合い」を高める施策を強めることもできる。これが共通語による国語教育、さらには国語政策に寄与するものだと述べている。

 
調査対象になった島人に村役場から配られた依頼状がそのまま残っている。

こんど國立國語研究所〔文部省〕では八丈島の言葉を調べることになり、東京から係宮が八名まいっております。この調査は八丈島の言葉の性質をよく調べるとともに、標準語がどのように廣まっていくものであるかをくわしく調べるものであります。この調査の結果は八丈島の歴史を明らかにし、國語教育、標準語教育を改良するための大切な材料になります。

そこで、入丈島ぜんたいで数百名の方方について、その言葉を調べさせていただきたいと思います。お忙しいところ御迷惑とは存じますが、どうか調査の目的を御了解下さって、なにぶんの御協力をお願いします。

なお、あなたさまにお願いするようになったのは、配給台帳によってクジビキ式に選んだのでありまして、特別の事情によってしたものではありません。また、なんらかの能力を調べるためでもありません。お名前を書いていただくようなこともいたしません。

一、日時 七月○○日 午前午後 時から 時までにお集り下さい。

一、場所 ○○

一、用意していただくもの なにもありません。

一、都合の悪い場合は○○へお知らせ下さい。

一、かならず本人がおいで下さい。

昭和二十四年六月二十九日

國立國語研究所長 西尾 實 東京都新宿区四谷霞丘明治神宮絵画館内

 ○○

そしてあらかじめ用意された調査表によって面接調査が進められた。これは静穏だった島に大きな波紋を起こしたに違いない。標準語プレッシャーが国の名前で押し寄せたと実感したであろう。いわば島言葉の放逐のための先兵だったのだ。

報告書の内容は、統計学を使った難解なもので理解しにくいものだが、結論は簡単「共通語を話さなければならない場面が積み重ねられることによって共通語を話す度合いは高まっていく」であった。いうなれば教育の場の標準語化徹底を図るということになったのであろう。


このわかりきった本文よりも、興味がひかれるのは調査原資料のほうにあった。

人口 12733人 調査に応じた人216名 

子供に標準語をしゃべらせたいか イエス 108 ノー9 不明 99

家で使う言葉    島言葉98 共通語31 使い分け40

共通語への関心   拒否6 空白186 時に使う10

 「共通語への関心」の項目で、実際に調査員が行った問いは「なぜ標準語をお話にならないのですか?」であり、標準語使用へのプレッシャーをあからさまにした問いだが、


それに対して約
9割の島人が「答えなかった」に分類された。いうなればこのプレッシャーにも関わらず、圧倒的多数の島民が標準語への拒否反応を示したのである。この島言葉への愛着が8000年八丈島言葉を連綿とつないできた原動力だった。


しかし国家の破壊工作も激しいものだった。特に子供の義務教育で島言葉を破壊した。全国共通の出来事だった。冒頭に挙げた昭和
50年に中学校の校長として赴任した内藤茂氏によれば、その当時はまだ中学生の作文でも島言葉を色濃く使っていた。しかしそれから60年、国家の標準語教育は進み、戦後本土との交流が著しく盛んになった。空港もできて、観光客や本土の資本の流入などで、島民が生活や仕事上で、標準語が必要になる場面が増加した。


我々が訪問した時、お世話になった民宿の家族の人たち、レンタカーの会社の人、食堂やスーパーなどで出会った人たちもみな当たり前のように標準語を話していた。堅立で八丈太鼓と地元の手踊りショメ節を見せてもらった時も、島言葉には接することはなかった。大阪に行けば、新幹線から地下鉄に乗り継げば、そこはもう大阪弁の世界だが、八丈島は索漠とした標準語の世界だった。


国連教育科学文化機関(ユネスコ)が
20092月に世界で消滅の危険にさらされている言語についての調査を発表した。そこでは、消滅の危機の程度を、アイヌ語を「極めて深刻」、沖縄の八重山語、与那国語を「重大な危険」、八丈島の言語を「危険」と分類警告した。ユネスコの担当者は、「これらの言語が日本で方言として扱われているのは認識しているが、国際的な基準だと独立の言語と扱うのが妥当と考えた」


この報告は、八丈島にもまた日本の言語界にもショックを与えた。世界からの目で危機を指摘されて、やっとその大切さに気付いたわけだ。八丈島教育委員会も島言葉の絶滅危機を訴え、保存を訴えるようになった。島言葉カルタを作って子供に与え、島言葉による芝居を上演するようになった。学校の学芸会でも、方言劇を取り組むようになり、シニア劇団「かぶつ」が島言葉の民話劇を作り機会を得て本土でも公演し、また学校へ出前公演し始めた。そして昨年から島の全小中学校で年間3時間ではあるが、方言学習をカリキュラム化した。


この貴重な八丈島言葉が、生きた常用言葉として回復することは、もはやむつかしいとしても、博物館的保存の希望はまだ残されている。
それによって日本語の誕生物語の推定ができ、さらには、もっと広くわれわれ日本人を語るには欠かせない縄文文化の生身の姿を想像させてもらえるのである。



先日、 『八丈島の方言が、消滅する危機にある』と新聞記事で大きく取り上げられました。
 
UNESCO
(国連教育科学文化機関)が、世界の言語の中で、「話さなくなった言葉・使われなくなった言葉」を調査したところ、日本では8つの言語が消滅の危機にあり、その1つが八丈島の言葉(八丈方言)だったのです。
 
そこで八丈町教育委員会では、島の言葉により関心を持っていただくため、資料として保管されていた八丈方言の音声を公開します。
 
かなり古い音源によるものなので、聞き取りづらい部分もございますが、昔にタイムスリップしたような気分を楽しむことができる・・・かも?
 
 八丈方言 (wma形式 5.06MB)
 

    この音声の中で談話をしている方で連絡が取れない方がいらっしゃいます。
 談話をしている方、または相続人の方は下記までご連絡ください。 

問い合わせ    八丈町教育課生涯学習係  電話 04996-2-7071

参考文献

日本語はいかに成立したか 大野晋 中公文庫2002

じゃっで方言なおもしとか 木部暢子 岩波書店2013/12

驚くべき日本語 ロジャー・パルバース 集英社2004/5/123

岩宿時代常設展示解説図録 岩宿博物館 平成23/3/15

八丈島の方言 内藤茂 昭和54年初版。平成143月復刻再版

八丈方言のいきたことば 金田章宏(千葉大)笠間書院2002/5/31

八丈島の観光を考える会「ルンルンガイド」2008盛夏号

オセアニアから来た日本語 川本崇雄 2007東洋出版

縄文語の発見 小泉保 元日本言語学会会長 青土社2014/6/10

日本のアイヌ語地名 大友幸男 三一書房1997

縄文語の発掘 鈴木健 新読書社 2000/2/22 

古代日本史と縄文語の謎に迫る 大山元 きこ書房2001/7/7

国立国語研究所報告1、八丈島の言語調査 秀英出版195011/15


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by rijityoo | 2015-01-28 15:30 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち(その7)

目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉



b、縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

では縄文前期、ある集団が社会的規模で八丈島に来たのはどの集団でどの時期なのか。神奈川、相模丘陵から大磯平塚付近にいた縄文人たちと推定する。理由は二つある。一つは言語学者の報告にあるように八丈島島言葉の語彙は南関東沿岸のものに近いからだ。


第2に、彼らの前に広がる相模湾に浮かぶ大島はいつも見慣れたものだし、天気が良ければその先の伊豆七島が目視出来た。石器時代から神津島の黒曜石、装飾用の大型貝の産出で交流が盛んだった。隣村くらいの感覚だった。
次に決行した時期であるが、それは、新富士の噴火と相模湾大地震のあった紀元前6000年のころと推定する。遺跡発掘の遺物もその時代とみなされた。


古富士は約
10万年前に大噴火し、広範囲の関東ローム層を形成したが、その後いったん収まり、15000年前から新富士の形ができ、またしばらく静かになって、今度は新富士の激しい噴火活動が5000年前ころから始まる。それと連動した相模湾地震は相模湾の海岸線にあった中村湾を埋めてしまうほどの激しさだった。相次ぐ噴火と地震は、森も海岸も変えてしまい、狩猟採取の生活を決定的に脅かしたに違いない。逃げ場を求めて内陸に向こうとすれば、浅間、赤城、榛名などの噴火で彼らの祖先が苦しんだ伝承もあったであろう。新天地を海の向こうに求めたのである。


そのころは縄文海進が最も進んだ時で、相模丘陵まで海が迫っていた。巨木森林のそばまで海岸が来ていたので、丸木舟を制作進水されるのも容易だった。写真は前掲の樋口氏の本から借用したもので、千葉で出土した縄文中期の丸木舟。長さ
7.5m70cm木はムクノキだ。10名は十分に乗れる。


新富士の噴火と相模湾地震で、相模丘陵付近の縄文人村落はまず、大島や伊豆七島に逃げたが、そこには定住者もいたし、島の人口許容量もそう多くない。そこまでいけば、その先が次々と見えてくる。八丈島は三宅島からもかすかに見える。次に向かう目標となりえた。

 
縄文海進の時代、海の水の量が増えていたので、海水の塩分が今の
3%より低かった可能性がある。2.5%なら飲める範囲になる。魚は豊富に捕れる。丸木舟であっても、気候と天気を見て渡海すれば、御蔵島と八丈の間に流れる黒潮も乗り越えられた。このようなある意味でのっぴきならぬ事情と、行き着くために自然が支援してくれた事情で、集団的社会的移住がこの時期だけ可能となったのだ。

 
6000年前八丈島に上陸した縄文人たちは、部落をあげての大渡海移住の決断を相談して決めたのであるから、それにふさわしい成熟した縄文日本語で話し合っていた。今八丈島言葉としてかろうじて残っている言葉だった。

 
同じような状況が九州南部でも起きていた。鹿児島は石器時代縄文初期からの遺跡がたくさん出る。縄文文化はこの地から始まったと見る学者もいるくらいだ。人口も多かった。この場所が歴史上の記録となるほどの大噴火にあっている。姶良大噴火2万5千年前、桜島2万年前このプレッシャーは石器人たちを、さしずめ屋久島・種子島などに追いやった。さら鬼界島の大噴火が富士噴火と同じ時期の紀元前
6500年に起きた。琉球諸島に大量の移住が発生したのもこの時期だろう。同じ縄文標準語を携えて。


c、その後の遮断で保存された縄文語。

 縄文海進は終わり、再び海は遠くなった。富士の噴火もおさまった。縄文後期から弥生時代に、社会は豊かになったので、あえて危険の多い海洋進出の冒険の必要もなくなった。弥生時代は農耕が始まったために人は定着していなければならないから、さらに渡海して移住するという人たちはいなくなった。八丈島はこのような事情で自然に隔離されたのである。


その後この島を訪れる人は漂流民か、ある目的を持った人たちといった少数の人たちに限られた。たとえば伝説の徐福一行の一つの船が流れてきたのかもしれない。徐福は長命の薬を求めてきた。この島で常生する明日葉がその薬になったとも島の伝説は語る。徐福でなくとも、その時代に養蚕を伝えた人がやってきたことは間違いない。奄美大島の大島紬は、黄八丈と並ぶ絹の名品だ。


鎌倉時代以降やってきたのは、ここを支配して絹を上納させるための北条など武家領主の役人であり、ついで江戸幕府の代官と流人である。彼らはいつも異文化と異言語をもたらしたが、島人に比較していつも少数だったので、彼らが話す言葉が島言葉にとって替わるようなことはなく、一部専門語として必要な新単語は受け入れられた。養蚕の述語コナサマや兵糧、貨幣、新しい挨拶「おかげさまで」などである。それらはいつも、ある敬意を持って受け入れられ、柔軟に吸収されていった。縄文語の基本を乱すほどのことはなかった。


これがこの島に縄文語が
6000年に亘って残りえた可能仮説である。


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by rijityoo | 2015-01-28 11:30 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
三水会だより「縄文語の名残を話してきた人たち」その6

目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉


第3部 八丈島になぜ縄文人が渡来し生き残ったのか

  1. 八丈島の縄文遺跡

    古い日本語をめぐる序説をひとまず終えて本論の八丈島に話を戻す。

    20142月、東海汽船の新鋭船で、夜の10時に東京竹島桟橋を出て、翌朝9時に八丈島に着いた。はるばる来たといった思いである。江戸時代は流人の島だったから、人跡の外れの地と思っていたが、ここに縄文遺跡があったというので驚きであった。


    次の図は八丈島である。島は二つの火山がつながって出来た島だ。周囲の海岸はほとんど険しいが、その二つの山の中央部は平地で船も接岸できる。現在東海汽船が着岸するのもこの底土港だ。島の中枢部もこの平地にある。


    縄文遺跡が発見されたのは、断崖にある2か所、湯浜と倉輪であまり人は立ち入らないところだ。

    この島を考古学的に調査した人たちの説では、縄文人たちは来ることは来たが、その後絶滅して弥生時代に再び来たという。(橋口尚武:海を渡った縄文人1999小学館)


    その根拠は発見された縄文遺跡が
    2件だけで、それから弥生時代の遺跡まで何も発見されていないからということのようだが、想像力に欠ける推定だ。私は縄文時代に上陸した彼らが生き延びて今の八丈島の原住民になっていると考える。その理由は次のようなものだ。縄文時代にこの島まで渡来するということは、物見遊山ではないし漂着でもない。後に述べるような生死をかけたのっぴきならない事情で、この人跡まれな遠島に来たのだ。彼らは当時の知恵を絞って、社会的に生存していける移住者群の規模と条件をそろえてやってきた。この島に来る前に三宅島や御蔵島を中継点として滞在し、十分に準備を整えて、この島に移住してきたのだから、簡単に絶滅するわけがない。食料にするためイノシシまで連れてきているのだ。それから数千年集団として生きて、人口を増やし社会を成功させた。遺跡が無いのは逆にこの地に生き続けた証拠だ。


    日本でも石器遺跡や縄文遺跡はおびただしく発見されるが、弥生時代の遺跡は極めて少ない。弥生時代は住居が少なかったのか? そうではあるまい。弥生時代以降は農耕文明で、それ以降はそこに定住し、同じところに居住を積み重ねていったから、住居跡が発見されないのだ。石器・縄文時代は農耕に適さない山岳部に住み、農耕時代にそこを放棄して平地に降りてきたので、逆に遺跡として残ったのだ。


    その類推でいけば、八丈島で縄文遺跡として発見された少数例は、不便で放棄したところと考えられる。初めに発見された湯浜遺跡、次の倉輪縄文遺跡は先の図の通りで、いずれも断崖の上にあり、初めて八丈島に来た集団がここに上陸して居を構えたとは考えにくい。やはり今も東海汽船が船をつける底土港付近、二つの山がなだらかに裾野を作る平地が広がる土地に上陸したであろう。この付近は長年住み続けたために、遺跡は発見されないだけで、事実この付近では石斧石器がたびたび発見されたのである。地下に埋もれた石器は保存されるのである。彼らの主力はここに住んだが、数千年のスパンで人口は増えて、海外沿いに展開していった。そしてやがて住みにくい山沿いにも広がっていった。

    湯浜や倉輪は初めの上陸地から一番遠い三原山の反対の山麓になる。しかし収まっていた三原山が、再び4000年前に噴火した。倉輪は溶岩流が海に落ちこむところに近く、いったんは住み着いたものの、危険になって慌てて逃げ出したのではないだろうか。だからこの倉輪遺跡からは、貴重な残留品が多く発見された。骨器釣り針が本土で発見されるより精巧にできていて、多くの種類の魚やサメ、クジラをとっていた証拠が見つかった。またイノシシの骨が発見されていて、本土から来たとき、イノシシの子供を連れてきて島に放牧したと推定されている。このように優れた能力を持った漁民の彼らが死に絶えてしまったとは考えられず、ずっと子孫を増やしていった。

    彼らは、その後たびたび漂着する漂流船がもたらした新しい時代の文化を吸収して、弥生化し、奈良時代人となっていったのだ。覚悟して生き延びるべく渡来した始まりの縄文集団と、その後に不運にも漂着した人々とは、数も準備も違うのだ。
    古文書の記録では、1474年から1865年までの390年間に199艘の漂着船が確認されている。15世紀くらいには2年に1槽漂着した。中国からも多かったようだ。



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by rijityoo | 2015-01-28 11:21 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち」(その5)

目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉



b、日本石器語をもって日本列島縦断

陸続きに大陸から北海道を通り日本列島に進出した人類種は、石器と石器語を持っていた。定住をはじめた3万5000年前ごろ使われた言葉を日本石器語と名付けておこう。大陸まで含めた交易圏と会話圏を推定すると、その言葉は単音で単純なものだった。むしろ複雑では通じなくなる。


それを推測することができるのが地名だ。地名は人々が言い出したときは意味があり、その意味が忘れられても地名だけは変化せず残るという世界共通の知見がある。今では現代日本語では意味が失われている不思議な地名こそ日本石器語の名残なのだ。そのような不思議な地名は日本の北部から始まり、九州南部さらに沖縄まで発見される。


石器を持った人類種は3万年の間にそこまで行きついていたのだ。1万5千年で南米大陸の南端まで到達した人類種のことを考えれば不思議なことではない。
さてその日本石器語の地名だが、それを古アイヌ語で読もうと研究した人たちがいる。たとえば大友幸男氏だ。古アイヌ語は近代まで残った古いユーカラなどから推定できるとすれば、それは日本石器語を推定できる有力な方法だ。石器語からアイヌ語が分離していく直前か直後の言葉である可能性が強いからだ。彼は日本各地にのこる須賀(スカ)が、「砂浜」という意味だし、三内丸山遺跡のサンナイは「前に開けた沢」、野毛山や能登のノは「あご」の意で岬を指していると指摘した。彼の研究によれば古アイヌ語は5つの母音から成り立ち、語順は今の日本語とおなじであり、単音が意味を持っていた。


その一例を引用すると

ウ(おたがい)エー(あなた)ク(私)シ(自分の)ポ(子)

ヤ(陸)ワ(岸)ペ(水)サ(浜)ト(沼)(海)ピ(小石)

単音多義語は身振りを伴ってやっと通じるものだったろう。オノマトペといわれる自然の擬音がふんだんに取り入れられていた


c、石器語から縄文語とアイヌ語に分離

16千年前には海面が上がる海進で津軽海峡ができ、北海道は分断されて孤立した。それまでは同じ石器語を使っていた北海道人は、本土人とは文化も言葉も分離して、北海道の自然に合わせた生活文化を作り、近代アイヌ語を完成させていった。本土縄文語とは異なる言語になった。北海道の縄文相当時代の文化も本土とは違った展開を見せた。同じ周氷河地帯につながる天塩川川岸に日本の縄文遺跡に似た竪穴住居の集落川口遺跡が見つかっている。本土の竪穴住居は掘りが浅いし狭いが、ここの竪穴住居は階段をつけてはいるほど深いし中も広く一見立派だ。しかしこの遺跡は8世紀のもので、本土ではすでに奈良時代を迎えていて、大陸からの弥生文化で高床式の立派な宮殿もできていたころのものだ。


遅れているともいえるが、一方北海道の寒さ対策としては、高床式よりもこのような地面より
1m近く深くて中で火が炊けるほど広い竪穴住居のほうが暖かだったのだろう。この時期、土器もむろん作られていたが、擦文土器と分類され本土とは違った独特のものである。

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d、日本石器語から縄文標準語へ

北海道に残った部族に比べて、日本列島に進出定住した石器人たちは、照葉樹林の中で得られる固い種子を食料にするため、土器をおそらく世界に先駆けて作り出し素晴らしい縄文文化へと突入した。


縄文中期の前6千年ごろを地球規模で比較すれば、ユーラシア大陸の中央今のブルガリア地帯ではすでにトラキア人が黄金の豪華文化を築き上げていた。彼らは騎馬と甲冑をもって、近隣の部族を征服し、彼らを奴隷とし黄金で飾った壮大豪華な王の墓を残していた。
しかし日本は縄文1万年の間、異民族との闘いや征服といったことは幸いにして経験せず、平和で穏やかな友好交流の社会が続いた。世界の辺境であったこその幸福であった。


そのような環境のもとに縄文語を発達させたのだ。縄文語は単音中心の石器語から出発して、徐々に複音化することで、一音多義のあいまいさをなくし、よりコミュニケーションに役立つ言語体系らしきものに成長させていったことであろう。細刀石器や縄文土器の制作能力で、現代人の及ばぬ能力を見せた人々が、言語の能力においても世界を驚かせるような縄文語を作ったと考えて何の不思議もない。ロジャー・パルバースは「驚くべき日本語」の中で、その柔軟性と発展性の高さは他のいかなる言語にもない特徴であり、『世界共通語』にふさわしいと述べている。


e
、縄文語に弥生時代の試練

日本石器語を受け継ぎ発展した縄文語は、石器語がそうであったように日本列島の広範囲で同じ言葉、いうなれば縄文標準語が使われていたと推定できる。村々は小集団から成り立っていたが、交流は活発で、社会はオープンだった。狩猟採取の生活はその日暮らしで蓄積はなく、したがって争奪ということを知らない社会であった。それにふさわしい言語は、アクセントがフラットで、丁重で、ゆっくりと音節を区切って発音するといった特徴を持っていたと推定される。八丈島言葉のように、である。


やがて世界から隔離されていた平和の縄文社会に大陸からの船による渡来が始まり弥生時代に突入する。中国大陸ではすでに夏殷の時代であり武力による徹底した征服を繰り返すようになっていた。
海を渡って日本列島にやってくる人類種は、それぞれのっぴきならぬ理由があった。石器時代人が獲物となるマンモスなどの大型動物をおって樺太からきたようにである。


弥生時代の船による渡来は朝鮮半島や中国からだが、まずは征服や戦火を逃れての避難部族であったろう。中には、おなじく敗退ではあったが、戦闘性は残し、捲土重来を誓ってあらたな拠点作りのために日本列島に上陸した集団もあった。弥生族でも特徴があったのだ。前者は平和友好を願い、後者はこの地で覇権を求めた。


渡来の先頭をきったのが平和友好派の出雲族であったことは幸いであった。彼らは先進文明を持っていたが、おそらく、もっと強力な戦闘部族に追い払われて、日本に逃亡してきた人々であったのかもしれない。彼らは神話にあるように国津神すなわち縄文人の娘をめとり、縄文語を学んでつかった。先住の縄文人たちに歓迎されて、彼らの聖地まで提供された。神社の形成はそのような経過で生まれたと推定できる証拠が日本のあちこちにある(
20134月「縄文の祭り」で発表)。ともかくも彼らは平和のうちに融合した。


農作をもたらした弥生時代、その社会は基本的に変わった。農業は組織が必要である。階層がうまれた。蓄積のあるところと、少ないところも生まれたので、奪われる危険がうまれ、村々は閉鎖的になり、環濠で自衛した。そこに今度は戦いに勝利してきた天孫族が渡来してきた。彼らはやがて日本の支配者となる。


次々に波状的に渡来した弥生族は、農耕文化と、社会の組織化、支配術、さらには金属による武装や戦争技術をもたらした。それらの先進技術とともに、先進的なテクニカルターム(特殊な単語群)をもちこんだ。大野晋氏ら多くの言語学者が、その分析をして多くの学説を立てているのはこの弥生時代以降のことだ。


言語にも深刻な影響が出た。共通であるよりも仲間同士であることがはっきりしたほうがよかった。方言が生まれてきたのである。方言化は自衛のためにも促進されたのである。
中央政府が生まれると、さらにそれは促進した。支配の強化のために、中央政府のある地方の言葉が標準語となり、地方語は卑しめられるという、言語の序列が生まれた。地方の人々の反抗心も育てた。自分たちの方言が自らのアイデンティティとなり、方言化を促進した。


しかし日本語の成立にとって重要なことは、その先進渡来人たちも、土着の縄文語を放逐できなかったことだ。もし放逐されていれば日本語は朝鮮語か、中国語の親戚言語になっていたはずだ。実際にはそれは起きなかった。縄文語はテクニカルタームをどんどん吸収していったが、基本は変わらなかったのである。縄文語が、パルバース氏がいうように極めて柔軟で、外国語を飲み込んでしまう性格であったからだろう。それなりに成熟していた縄文社会の人口は大きく、いつも先進渡来人は少数派で、彼らを征服するような規模ではなかったからでもあろう。


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by rijityoo | 2015-01-27 07:25 |  三水会 便り(5) | Comments(0)