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新配信映画は球磨川を拓く 藤本発電所建設記録」「

球磨川を拓く 藤本発電所建設記録

b0115553_10372812.png

作品概要

企画/撮影:熊本県広報渉外課 編集/録音:東京映画技術研究所
1954年 白黒 27分44秒

球磨川の水害被害を防ぎ、電源確保のため県民一体となって着手した荒瀬ダム建設の意義と経緯を描いた作品。戦直後この大事業に着手した卓見に敬意を表したい。ダム建設記録として当時は黒四ダムにも匹敵した大工事。しかし、今日このダムが撤去第一号とは?

この作品はフィルムをVHS転換後、デジタル復元のため、映像は必ずしも鮮明ではない。
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by rijityoo | 2015-01-29 10:36 | Comments(0)
三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち」その8

目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d、昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉


戦後まもなくの19496月国立国語研究所第1研究室の一行7名が10数日の計画で八丈島言葉の調査研究に赴いた。翌年3月に発行された調査報告書によってその様子を詳細に知ることができる。当時の国語研究所の目的は明確なもので、「標準語を普及させる」ことであった。すなわち「標準語を話す度合いをたかめる」ためどんな対策が必要なのかを立案し実行することであった。島言葉の研究保存が目的ではなかった!


八丈島を調査対象の第
1に選んだ理由も書かれている。八丈言葉は共通語とはかなり違った特殊な言語であり、独立した生活体をしているので、共通語を話す度合いを調べるのに適していたからだ。

 
もしこの調査の結果「共通語を話す度合い」とそれをきめる要因が明らかになれば、「共通語を話す度合い」を高める施策を強めることもできる。これが共通語による国語教育、さらには国語政策に寄与するものだと述べている。

 
調査対象になった島人に村役場から配られた依頼状がそのまま残っている。

こんど國立國語研究所〔文部省〕では八丈島の言葉を調べることになり、東京から係宮が八名まいっております。この調査は八丈島の言葉の性質をよく調べるとともに、標準語がどのように廣まっていくものであるかをくわしく調べるものであります。この調査の結果は八丈島の歴史を明らかにし、國語教育、標準語教育を改良するための大切な材料になります。

そこで、入丈島ぜんたいで数百名の方方について、その言葉を調べさせていただきたいと思います。お忙しいところ御迷惑とは存じますが、どうか調査の目的を御了解下さって、なにぶんの御協力をお願いします。

なお、あなたさまにお願いするようになったのは、配給台帳によってクジビキ式に選んだのでありまして、特別の事情によってしたものではありません。また、なんらかの能力を調べるためでもありません。お名前を書いていただくようなこともいたしません。

一、日時 七月○○日 午前午後 時から 時までにお集り下さい。

一、場所 ○○

一、用意していただくもの なにもありません。

一、都合の悪い場合は○○へお知らせ下さい。

一、かならず本人がおいで下さい。

昭和二十四年六月二十九日

國立國語研究所長 西尾 實 東京都新宿区四谷霞丘明治神宮絵画館内

 ○○

そしてあらかじめ用意された調査表によって面接調査が進められた。これは静穏だった島に大きな波紋を起こしたに違いない。標準語プレッシャーが国の名前で押し寄せたと実感したであろう。いわば島言葉の放逐のための先兵だったのだ。

報告書の内容は、統計学を使った難解なもので理解しにくいものだが、結論は簡単「共通語を話さなければならない場面が積み重ねられることによって共通語を話す度合いは高まっていく」であった。いうなれば教育の場の標準語化徹底を図るということになったのであろう。


このわかりきった本文よりも、興味がひかれるのは調査原資料のほうにあった。

人口 12733人 調査に応じた人216名 

子供に標準語をしゃべらせたいか イエス 108 ノー9 不明 99

家で使う言葉    島言葉98 共通語31 使い分け40

共通語への関心   拒否6 空白186 時に使う10

 「共通語への関心」の項目で、実際に調査員が行った問いは「なぜ標準語をお話にならないのですか?」であり、標準語使用へのプレッシャーをあからさまにした問いだが、


それに対して約
9割の島人が「答えなかった」に分類された。いうなればこのプレッシャーにも関わらず、圧倒的多数の島民が標準語への拒否反応を示したのである。この島言葉への愛着が8000年八丈島言葉を連綿とつないできた原動力だった。


しかし国家の破壊工作も激しいものだった。特に子供の義務教育で島言葉を破壊した。全国共通の出来事だった。冒頭に挙げた昭和
50年に中学校の校長として赴任した内藤茂氏によれば、その当時はまだ中学生の作文でも島言葉を色濃く使っていた。しかしそれから60年、国家の標準語教育は進み、戦後本土との交流が著しく盛んになった。空港もできて、観光客や本土の資本の流入などで、島民が生活や仕事上で、標準語が必要になる場面が増加した。


我々が訪問した時、お世話になった民宿の家族の人たち、レンタカーの会社の人、食堂やスーパーなどで出会った人たちもみな当たり前のように標準語を話していた。堅立で八丈太鼓と地元の手踊りショメ節を見せてもらった時も、島言葉には接することはなかった。大阪に行けば、新幹線から地下鉄に乗り継げば、そこはもう大阪弁の世界だが、八丈島は索漠とした標準語の世界だった。


国連教育科学文化機関(ユネスコ)が
20092月に世界で消滅の危険にさらされている言語についての調査を発表した。そこでは、消滅の危機の程度を、アイヌ語を「極めて深刻」、沖縄の八重山語、与那国語を「重大な危険」、八丈島の言語を「危険」と分類警告した。ユネスコの担当者は、「これらの言語が日本で方言として扱われているのは認識しているが、国際的な基準だと独立の言語と扱うのが妥当と考えた」


この報告は、八丈島にもまた日本の言語界にもショックを与えた。世界からの目で危機を指摘されて、やっとその大切さに気付いたわけだ。八丈島教育委員会も島言葉の絶滅危機を訴え、保存を訴えるようになった。島言葉カルタを作って子供に与え、島言葉による芝居を上演するようになった。学校の学芸会でも、方言劇を取り組むようになり、シニア劇団「かぶつ」が島言葉の民話劇を作り機会を得て本土でも公演し、また学校へ出前公演し始めた。そして昨年から島の全小中学校で年間3時間ではあるが、方言学習をカリキュラム化した。


この貴重な八丈島言葉が、生きた常用言葉として回復することは、もはやむつかしいとしても、博物館的保存の希望はまだ残されている。
それによって日本語の誕生物語の推定ができ、さらには、もっと広くわれわれ日本人を語るには欠かせない縄文文化の生身の姿を想像させてもらえるのである。



先日、 『八丈島の方言が、消滅する危機にある』と新聞記事で大きく取り上げられました。
 
UNESCO
(国連教育科学文化機関)が、世界の言語の中で、「話さなくなった言葉・使われなくなった言葉」を調査したところ、日本では8つの言語が消滅の危機にあり、その1つが八丈島の言葉(八丈方言)だったのです。
 
そこで八丈町教育委員会では、島の言葉により関心を持っていただくため、資料として保管されていた八丈方言の音声を公開します。
 
かなり古い音源によるものなので、聞き取りづらい部分もございますが、昔にタイムスリップしたような気分を楽しむことができる・・・かも?
 
 八丈方言 (wma形式 5.06MB)
 

    この音声の中で談話をしている方で連絡が取れない方がいらっしゃいます。
 談話をしている方、または相続人の方は下記までご連絡ください。 

問い合わせ    八丈町教育課生涯学習係  電話 04996-2-7071

参考文献

日本語はいかに成立したか 大野晋 中公文庫2002

じゃっで方言なおもしとか 木部暢子 岩波書店2013/12

驚くべき日本語 ロジャー・パルバース 集英社2004/5/123

岩宿時代常設展示解説図録 岩宿博物館 平成23/3/15

八丈島の方言 内藤茂 昭和54年初版。平成143月復刻再版

八丈方言のいきたことば 金田章宏(千葉大)笠間書院2002/5/31

八丈島の観光を考える会「ルンルンガイド」2008盛夏号

オセアニアから来た日本語 川本崇雄 2007東洋出版

縄文語の発見 小泉保 元日本言語学会会長 青土社2014/6/10

日本のアイヌ語地名 大友幸男 三一書房1997

縄文語の発掘 鈴木健 新読書社 2000/2/22 

古代日本史と縄文語の謎に迫る 大山元 きこ書房2001/7/7

国立国語研究所報告1、八丈島の言語調査 秀英出版195011/15


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by rijityoo | 2015-01-28 15:30 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち(その7)

目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉



b、縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

では縄文前期、ある集団が社会的規模で八丈島に来たのはどの集団でどの時期なのか。神奈川、相模丘陵から大磯平塚付近にいた縄文人たちと推定する。理由は二つある。一つは言語学者の報告にあるように八丈島島言葉の語彙は南関東沿岸のものに近いからだ。


第2に、彼らの前に広がる相模湾に浮かぶ大島はいつも見慣れたものだし、天気が良ければその先の伊豆七島が目視出来た。石器時代から神津島の黒曜石、装飾用の大型貝の産出で交流が盛んだった。隣村くらいの感覚だった。
次に決行した時期であるが、それは、新富士の噴火と相模湾大地震のあった紀元前6000年のころと推定する。遺跡発掘の遺物もその時代とみなされた。


古富士は約
10万年前に大噴火し、広範囲の関東ローム層を形成したが、その後いったん収まり、15000年前から新富士の形ができ、またしばらく静かになって、今度は新富士の激しい噴火活動が5000年前ころから始まる。それと連動した相模湾地震は相模湾の海岸線にあった中村湾を埋めてしまうほどの激しさだった。相次ぐ噴火と地震は、森も海岸も変えてしまい、狩猟採取の生活を決定的に脅かしたに違いない。逃げ場を求めて内陸に向こうとすれば、浅間、赤城、榛名などの噴火で彼らの祖先が苦しんだ伝承もあったであろう。新天地を海の向こうに求めたのである。


そのころは縄文海進が最も進んだ時で、相模丘陵まで海が迫っていた。巨木森林のそばまで海岸が来ていたので、丸木舟を制作進水されるのも容易だった。写真は前掲の樋口氏の本から借用したもので、千葉で出土した縄文中期の丸木舟。長さ
7.5m70cm木はムクノキだ。10名は十分に乗れる。


新富士の噴火と相模湾地震で、相模丘陵付近の縄文人村落はまず、大島や伊豆七島に逃げたが、そこには定住者もいたし、島の人口許容量もそう多くない。そこまでいけば、その先が次々と見えてくる。八丈島は三宅島からもかすかに見える。次に向かう目標となりえた。

 
縄文海進の時代、海の水の量が増えていたので、海水の塩分が今の
3%より低かった可能性がある。2.5%なら飲める範囲になる。魚は豊富に捕れる。丸木舟であっても、気候と天気を見て渡海すれば、御蔵島と八丈の間に流れる黒潮も乗り越えられた。このようなある意味でのっぴきならぬ事情と、行き着くために自然が支援してくれた事情で、集団的社会的移住がこの時期だけ可能となったのだ。

 
6000年前八丈島に上陸した縄文人たちは、部落をあげての大渡海移住の決断を相談して決めたのであるから、それにふさわしい成熟した縄文日本語で話し合っていた。今八丈島言葉としてかろうじて残っている言葉だった。

 
同じような状況が九州南部でも起きていた。鹿児島は石器時代縄文初期からの遺跡がたくさん出る。縄文文化はこの地から始まったと見る学者もいるくらいだ。人口も多かった。この場所が歴史上の記録となるほどの大噴火にあっている。姶良大噴火2万5千年前、桜島2万年前このプレッシャーは石器人たちを、さしずめ屋久島・種子島などに追いやった。さら鬼界島の大噴火が富士噴火と同じ時期の紀元前
6500年に起きた。琉球諸島に大量の移住が発生したのもこの時期だろう。同じ縄文標準語を携えて。


c、その後の遮断で保存された縄文語。

 縄文海進は終わり、再び海は遠くなった。富士の噴火もおさまった。縄文後期から弥生時代に、社会は豊かになったので、あえて危険の多い海洋進出の冒険の必要もなくなった。弥生時代は農耕が始まったために人は定着していなければならないから、さらに渡海して移住するという人たちはいなくなった。八丈島はこのような事情で自然に隔離されたのである。


その後この島を訪れる人は漂流民か、ある目的を持った人たちといった少数の人たちに限られた。たとえば伝説の徐福一行の一つの船が流れてきたのかもしれない。徐福は長命の薬を求めてきた。この島で常生する明日葉がその薬になったとも島の伝説は語る。徐福でなくとも、その時代に養蚕を伝えた人がやってきたことは間違いない。奄美大島の大島紬は、黄八丈と並ぶ絹の名品だ。


鎌倉時代以降やってきたのは、ここを支配して絹を上納させるための北条など武家領主の役人であり、ついで江戸幕府の代官と流人である。彼らはいつも異文化と異言語をもたらしたが、島人に比較していつも少数だったので、彼らが話す言葉が島言葉にとって替わるようなことはなく、一部専門語として必要な新単語は受け入れられた。養蚕の述語コナサマや兵糧、貨幣、新しい挨拶「おかげさまで」などである。それらはいつも、ある敬意を持って受け入れられ、柔軟に吸収されていった。縄文語の基本を乱すほどのことはなかった。


これがこの島に縄文語が
6000年に亘って残りえた可能仮説である。


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by rijityoo | 2015-01-28 11:30 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
三水会だより「縄文語の名残を話してきた人たち」その6

目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉


第3部 八丈島になぜ縄文人が渡来し生き残ったのか

  1. 八丈島の縄文遺跡

    古い日本語をめぐる序説をひとまず終えて本論の八丈島に話を戻す。

    20142月、東海汽船の新鋭船で、夜の10時に東京竹島桟橋を出て、翌朝9時に八丈島に着いた。はるばる来たといった思いである。江戸時代は流人の島だったから、人跡の外れの地と思っていたが、ここに縄文遺跡があったというので驚きであった。


    次の図は八丈島である。島は二つの火山がつながって出来た島だ。周囲の海岸はほとんど険しいが、その二つの山の中央部は平地で船も接岸できる。現在東海汽船が着岸するのもこの底土港だ。島の中枢部もこの平地にある。


    縄文遺跡が発見されたのは、断崖にある2か所、湯浜と倉輪であまり人は立ち入らないところだ。

    この島を考古学的に調査した人たちの説では、縄文人たちは来ることは来たが、その後絶滅して弥生時代に再び来たという。(橋口尚武:海を渡った縄文人1999小学館)


    その根拠は発見された縄文遺跡が
    2件だけで、それから弥生時代の遺跡まで何も発見されていないからということのようだが、想像力に欠ける推定だ。私は縄文時代に上陸した彼らが生き延びて今の八丈島の原住民になっていると考える。その理由は次のようなものだ。縄文時代にこの島まで渡来するということは、物見遊山ではないし漂着でもない。後に述べるような生死をかけたのっぴきならない事情で、この人跡まれな遠島に来たのだ。彼らは当時の知恵を絞って、社会的に生存していける移住者群の規模と条件をそろえてやってきた。この島に来る前に三宅島や御蔵島を中継点として滞在し、十分に準備を整えて、この島に移住してきたのだから、簡単に絶滅するわけがない。食料にするためイノシシまで連れてきているのだ。それから数千年集団として生きて、人口を増やし社会を成功させた。遺跡が無いのは逆にこの地に生き続けた証拠だ。


    日本でも石器遺跡や縄文遺跡はおびただしく発見されるが、弥生時代の遺跡は極めて少ない。弥生時代は住居が少なかったのか? そうではあるまい。弥生時代以降は農耕文明で、それ以降はそこに定住し、同じところに居住を積み重ねていったから、住居跡が発見されないのだ。石器・縄文時代は農耕に適さない山岳部に住み、農耕時代にそこを放棄して平地に降りてきたので、逆に遺跡として残ったのだ。


    その類推でいけば、八丈島で縄文遺跡として発見された少数例は、不便で放棄したところと考えられる。初めに発見された湯浜遺跡、次の倉輪縄文遺跡は先の図の通りで、いずれも断崖の上にあり、初めて八丈島に来た集団がここに上陸して居を構えたとは考えにくい。やはり今も東海汽船が船をつける底土港付近、二つの山がなだらかに裾野を作る平地が広がる土地に上陸したであろう。この付近は長年住み続けたために、遺跡は発見されないだけで、事実この付近では石斧石器がたびたび発見されたのである。地下に埋もれた石器は保存されるのである。彼らの主力はここに住んだが、数千年のスパンで人口は増えて、海外沿いに展開していった。そしてやがて住みにくい山沿いにも広がっていった。

    湯浜や倉輪は初めの上陸地から一番遠い三原山の反対の山麓になる。しかし収まっていた三原山が、再び4000年前に噴火した。倉輪は溶岩流が海に落ちこむところに近く、いったんは住み着いたものの、危険になって慌てて逃げ出したのではないだろうか。だからこの倉輪遺跡からは、貴重な残留品が多く発見された。骨器釣り針が本土で発見されるより精巧にできていて、多くの種類の魚やサメ、クジラをとっていた証拠が見つかった。またイノシシの骨が発見されていて、本土から来たとき、イノシシの子供を連れてきて島に放牧したと推定されている。このように優れた能力を持った漁民の彼らが死に絶えてしまったとは考えられず、ずっと子孫を増やしていった。

    彼らは、その後たびたび漂着する漂流船がもたらした新しい時代の文化を吸収して、弥生化し、奈良時代人となっていったのだ。覚悟して生き延びるべく渡来した始まりの縄文集団と、その後に不運にも漂着した人々とは、数も準備も違うのだ。
    古文書の記録では、1474年から1865年までの390年間に199艘の漂着船が確認されている。15世紀くらいには2年に1槽漂着した。中国からも多かったようだ。



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by rijityoo | 2015-01-28 11:21 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
川越から早咲の梅の花の写真を送ります
餅つき踊りの奉納神社、菅原神社には毎年ひと株の梅の、しかも2、3の枝のみが1月から花をつけ木があります。今日撮って来ました。もう満開でした。
b0115553_13551664.png
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by rijityoo | 2015-01-27 13:55 | 活動の蔵(1、208) | Comments(0)
三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち」(その5)

目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉



b、日本石器語をもって日本列島縦断

陸続きに大陸から北海道を通り日本列島に進出した人類種は、石器と石器語を持っていた。定住をはじめた3万5000年前ごろ使われた言葉を日本石器語と名付けておこう。大陸まで含めた交易圏と会話圏を推定すると、その言葉は単音で単純なものだった。むしろ複雑では通じなくなる。


それを推測することができるのが地名だ。地名は人々が言い出したときは意味があり、その意味が忘れられても地名だけは変化せず残るという世界共通の知見がある。今では現代日本語では意味が失われている不思議な地名こそ日本石器語の名残なのだ。そのような不思議な地名は日本の北部から始まり、九州南部さらに沖縄まで発見される。


石器を持った人類種は3万年の間にそこまで行きついていたのだ。1万5千年で南米大陸の南端まで到達した人類種のことを考えれば不思議なことではない。
さてその日本石器語の地名だが、それを古アイヌ語で読もうと研究した人たちがいる。たとえば大友幸男氏だ。古アイヌ語は近代まで残った古いユーカラなどから推定できるとすれば、それは日本石器語を推定できる有力な方法だ。石器語からアイヌ語が分離していく直前か直後の言葉である可能性が強いからだ。彼は日本各地にのこる須賀(スカ)が、「砂浜」という意味だし、三内丸山遺跡のサンナイは「前に開けた沢」、野毛山や能登のノは「あご」の意で岬を指していると指摘した。彼の研究によれば古アイヌ語は5つの母音から成り立ち、語順は今の日本語とおなじであり、単音が意味を持っていた。


その一例を引用すると

ウ(おたがい)エー(あなた)ク(私)シ(自分の)ポ(子)

ヤ(陸)ワ(岸)ペ(水)サ(浜)ト(沼)(海)ピ(小石)

単音多義語は身振りを伴ってやっと通じるものだったろう。オノマトペといわれる自然の擬音がふんだんに取り入れられていた


c、石器語から縄文語とアイヌ語に分離

16千年前には海面が上がる海進で津軽海峡ができ、北海道は分断されて孤立した。それまでは同じ石器語を使っていた北海道人は、本土人とは文化も言葉も分離して、北海道の自然に合わせた生活文化を作り、近代アイヌ語を完成させていった。本土縄文語とは異なる言語になった。北海道の縄文相当時代の文化も本土とは違った展開を見せた。同じ周氷河地帯につながる天塩川川岸に日本の縄文遺跡に似た竪穴住居の集落川口遺跡が見つかっている。本土の竪穴住居は掘りが浅いし狭いが、ここの竪穴住居は階段をつけてはいるほど深いし中も広く一見立派だ。しかしこの遺跡は8世紀のもので、本土ではすでに奈良時代を迎えていて、大陸からの弥生文化で高床式の立派な宮殿もできていたころのものだ。


遅れているともいえるが、一方北海道の寒さ対策としては、高床式よりもこのような地面より
1m近く深くて中で火が炊けるほど広い竪穴住居のほうが暖かだったのだろう。この時期、土器もむろん作られていたが、擦文土器と分類され本土とは違った独特のものである。

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d、日本石器語から縄文標準語へ

北海道に残った部族に比べて、日本列島に進出定住した石器人たちは、照葉樹林の中で得られる固い種子を食料にするため、土器をおそらく世界に先駆けて作り出し素晴らしい縄文文化へと突入した。


縄文中期の前6千年ごろを地球規模で比較すれば、ユーラシア大陸の中央今のブルガリア地帯ではすでにトラキア人が黄金の豪華文化を築き上げていた。彼らは騎馬と甲冑をもって、近隣の部族を征服し、彼らを奴隷とし黄金で飾った壮大豪華な王の墓を残していた。
しかし日本は縄文1万年の間、異民族との闘いや征服といったことは幸いにして経験せず、平和で穏やかな友好交流の社会が続いた。世界の辺境であったこその幸福であった。


そのような環境のもとに縄文語を発達させたのだ。縄文語は単音中心の石器語から出発して、徐々に複音化することで、一音多義のあいまいさをなくし、よりコミュニケーションに役立つ言語体系らしきものに成長させていったことであろう。細刀石器や縄文土器の制作能力で、現代人の及ばぬ能力を見せた人々が、言語の能力においても世界を驚かせるような縄文語を作ったと考えて何の不思議もない。ロジャー・パルバースは「驚くべき日本語」の中で、その柔軟性と発展性の高さは他のいかなる言語にもない特徴であり、『世界共通語』にふさわしいと述べている。


e
、縄文語に弥生時代の試練

日本石器語を受け継ぎ発展した縄文語は、石器語がそうであったように日本列島の広範囲で同じ言葉、いうなれば縄文標準語が使われていたと推定できる。村々は小集団から成り立っていたが、交流は活発で、社会はオープンだった。狩猟採取の生活はその日暮らしで蓄積はなく、したがって争奪ということを知らない社会であった。それにふさわしい言語は、アクセントがフラットで、丁重で、ゆっくりと音節を区切って発音するといった特徴を持っていたと推定される。八丈島言葉のように、である。


やがて世界から隔離されていた平和の縄文社会に大陸からの船による渡来が始まり弥生時代に突入する。中国大陸ではすでに夏殷の時代であり武力による徹底した征服を繰り返すようになっていた。
海を渡って日本列島にやってくる人類種は、それぞれのっぴきならぬ理由があった。石器時代人が獲物となるマンモスなどの大型動物をおって樺太からきたようにである。


弥生時代の船による渡来は朝鮮半島や中国からだが、まずは征服や戦火を逃れての避難部族であったろう。中には、おなじく敗退ではあったが、戦闘性は残し、捲土重来を誓ってあらたな拠点作りのために日本列島に上陸した集団もあった。弥生族でも特徴があったのだ。前者は平和友好を願い、後者はこの地で覇権を求めた。


渡来の先頭をきったのが平和友好派の出雲族であったことは幸いであった。彼らは先進文明を持っていたが、おそらく、もっと強力な戦闘部族に追い払われて、日本に逃亡してきた人々であったのかもしれない。彼らは神話にあるように国津神すなわち縄文人の娘をめとり、縄文語を学んでつかった。先住の縄文人たちに歓迎されて、彼らの聖地まで提供された。神社の形成はそのような経過で生まれたと推定できる証拠が日本のあちこちにある(
20134月「縄文の祭り」で発表)。ともかくも彼らは平和のうちに融合した。


農作をもたらした弥生時代、その社会は基本的に変わった。農業は組織が必要である。階層がうまれた。蓄積のあるところと、少ないところも生まれたので、奪われる危険がうまれ、村々は閉鎖的になり、環濠で自衛した。そこに今度は戦いに勝利してきた天孫族が渡来してきた。彼らはやがて日本の支配者となる。


次々に波状的に渡来した弥生族は、農耕文化と、社会の組織化、支配術、さらには金属による武装や戦争技術をもたらした。それらの先進技術とともに、先進的なテクニカルターム(特殊な単語群)をもちこんだ。大野晋氏ら多くの言語学者が、その分析をして多くの学説を立てているのはこの弥生時代以降のことだ。


言語にも深刻な影響が出た。共通であるよりも仲間同士であることがはっきりしたほうがよかった。方言が生まれてきたのである。方言化は自衛のためにも促進されたのである。
中央政府が生まれると、さらにそれは促進した。支配の強化のために、中央政府のある地方の言葉が標準語となり、地方語は卑しめられるという、言語の序列が生まれた。地方の人々の反抗心も育てた。自分たちの方言が自らのアイデンティティとなり、方言化を促進した。


しかし日本語の成立にとって重要なことは、その先進渡来人たちも、土着の縄文語を放逐できなかったことだ。もし放逐されていれば日本語は朝鮮語か、中国語の親戚言語になっていたはずだ。実際にはそれは起きなかった。縄文語はテクニカルタームをどんどん吸収していったが、基本は変わらなかったのである。縄文語が、パルバース氏がいうように極めて柔軟で、外国語を飲み込んでしまう性格であったからだろう。それなりに成熟していた縄文社会の人口は大きく、いつも先進渡来人は少数派で、彼らを征服するような規模ではなかったからでもあろう。


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by rijityoo | 2015-01-27 07:25 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち」(その4)

目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉



第2部日本語の起源:日本石器語の仮説

縄文語というからには、日本語の原型がどのように作られたのかを尋ねなければならない。古来このテーマは多くの学者が取り組んできたテーマだ。まず日本語という孤立言語は、江戸時代に来た外国人にも好奇心を招いた。ドイツ人の医師ケンプェルは、オランダ使節に同行して江戸にも来たが、彼は帰国後に書いた「日本誌」に、聖書のバベルの塔の物語で、分裂させられた一群がカスピ海を北上してシベリアから渡来して日本にもたらした言語であるとの説をたてた。

江戸末期から明治大正昭和と多くの言語学者は、あるいは、朝鮮から来たとか、ウラル・アルタイ語、特にツングース語に起源があるとか、あるいはオセアニア語(川本崇雄)やインドのタミル語が原型だなどという様々な学説を発表した。語彙・発音・文法を収集し比較して、つくられた学説である。


しかし不思議なことに、日本語は、縄文語として、この列島で生まれたという一番ありそうな説は、ずっと無かったのだ。
たとえば、タミル語説で有名な大野晋は、タミル語が食料文化とともに日本にもたらされ、日本語の文法や単語の基礎すなわち日本語の原型を形作ったと主張しているが、最近の著書では、そのタミル語とその文化が伝来したとき、「すでにそこには人間がいて言語を使っていた」と書き、消極的に先在の言語を認めている。がそれは先進的言語文化によって消え去ったという説である。


やっと
21世紀になって、日本には独自の縄文言語が先在して成立していたという説が小泉保氏や、前掲の金田氏によって出され始めた。私もそれが正しいとおもい、それはどのように生まれどのようなものだったかを推定したい。

a 日本列島に渡来した人間たち

201410月日本の最北端、稚内宗谷岬を訪ねた。13

岬といえば竜飛岬や、足摺岬など断崖で終わる風景を想像するが、宗谷岬は異様だった。海岸からなだらかな丘陵が続くのである。それは海岸付近ばかりでなく内陸20kmに入っても連続して、青々した牧草に覆われた牧場になっているのだ。この異様な地形は周氷河地形というのだと表示板があった。さてそれではどこに氷河があったのか、稚内教育委員会が主催している稚内北方記念館にその説明展示があった。

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すなわち数万年前のウルム氷河期の終り、氷河は地と海を覆い、ユーラシア大陸、樺太北海道は陸続きとなっていた。さらに2万年前には津軽海峡も消え、日本本土まで陸続きとなった。マンモスやナウマン象、大形の鹿を追って人類は北海道に入り、さらに日本列島に広がっていった。しかし縄文時代が始まるころは再び北海道は切り離された。このあたりの地理の変化を理解しておくことは、日本列島進出の人類種がやがて、アイヌ族、日本縄文族と分離して成長していったという考えを導くうえで重要なことである。


日本列島に渡来した人類種はすでに石器を手にしていた。狩りには欠かせない道具として持っていた。
1973年周氷河地の丘陵地の豊別に2万年まえのものである旧石器遺跡が発見されている。

恐竜は骨を残したが、人類は石器を残した。すべての人間の歴史遺産はやがて消え去るものだが、石器だけは消えず残った。日本列島に石器遺産が存在すると認識されたのは、1948年にアマチュア考古学者の相沢忠洋が群馬県岩宿で黒曜石槍先型尖頭石器を発見したことによるが、それ以降全国で競うように石器遺跡が発掘され、一種のブームを生んだほどだ。


その結果石器の形状や材料の全国分布がくわしくわかってきた。
石器といえば原始的の代名詞のように思ってしまうが、刃先を尖らせ磨きさえかけられた石器を見ると原始的などとは言えない。石の中の石「黒曜石」などは貴重だった。それはどこにでもあるものではなく、とれるところから遠くはるばるとはこばれてきたのだ。おびただしい数の黒曜石の細石片を見ていると、これは縄文時代の貨幣であったのではないかと見えてくる。石器時代は立派な文化なのだ。


それは流通していたのである。そしてその時代の人間の生活が見えてきた。原始時代と思われていたこの長い時代に石器は荒いものから細かいものへ、尖ったものや鋭い滑らかな刃を持つものへと進化した。また地方によって採れる石材にあった特産物石器も育った。驚くべきことに石器の量産工場までできていたことが発見された。相沢がいた群馬県岩
15

宿にも近い赤城山麓の武井遺跡である。石材は各地から持ち込まれた。加工中の廃材も無数に発見された。ここで加工され各地に運ばれたことは確実である。

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縄文1万年と一口に言うが、石器時代は2万5000年の間継続したのである。この間縄文土器以上に各地で特徴のある石器が作られたという証拠が発見されている。次ページの図は岩宿博物館が作成された日本各地石器編年図である。石器とその材料は各地で交流していたことを考慮すると、長い石器時代に日本列島には相当優れたコミュニケーション言語が出来上がっていたと考えるほかないのである。

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by rijityoo | 2015-01-26 17:55 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち(その3)

目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉



c、八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

私が八丈町教育委員会に、カルタに「八丈方言は縄文時代の言語のなごりを留めるもの」と書いた根拠を尋ねたところ、「この方に聞いてください」と紹介された千葉大の金田章宏教授は、メールでこう答えてくれた。なお金田氏は八丈島方言を収集分析し、「八丈方言のいきたことば」を書いておられる八丈方言の学術研究者である。


「縄文系の言語のなごりを伝えている可能性がある、と私が推測する理由は、奈良時代の奈良中央に対して、その支配の及ぶ東の端の関東周辺は異民族的(縄文的)な東北に対する最前線であり、つまり弥生化がもっとも遅れた地域=縄文的な要素がもっとも残された地域、であることです。言葉の点で奈良中央と違いがあるとしたら、そうしたことも視野に入れてもいいのではないか、と考えました。ところが、八丈方言のオ連体形に相当する語形が沖縄の石垣方言にもありそうなことが最近になってわかりました。琉大の研究者が年内に発表するはずです。それが確実であれば、状況は変わってきます。つまり、北の縄文系と西の縄文系では別の言語を使用していた可能性がありますが、八丈と石垣とでおなじような古い特徴を持っているということは、奈良中央の言語より古い共通の特徴が同心円状にもっとも周辺に残されたことになるので、どちらにも共通の言語がその土台になっていることになります。奈良中央がうしなってしまった弥生系の古い特徴が八丈と石垣に残った、という可能性が高くなるわけです。


研究が進むにつれて、推測の範囲がだんだん狭まっていき、より断定的な表現が可能になります。石垣方言との共通点が確認されれば、私はもう「縄文的な」という表現は使わなくなるでしょう。
いずれにしても、八丈方言が琉球諸方言の一部とともに、日本語の中でもっとも古い特徴を持っていることは確実だと思います。

ウイキペディアの八丈方言の解説者は、島言葉の基本形が、万葉集の東歌に残っているような、古い語形を残していると次のように書いている。

「『万葉集』に記録された東国方言には、四段動詞と形容詞の連体形は、「立と月」「愛(かな)しけ妹(いも)」のように中央語とは異なる独特の語形を取るが、八丈島で話される八丈方言は「書こ時」「高け山」のように、上代東国方言と同様の語形を取ることで知られている。日本語に方言は数あれど、このような活用を残すのは八丈方言など少数である。」


八丈島は東京都に属するので、学校の先生は東京都から派遣される。昭和
50年から3年間中学校の校長として赴任した内藤茂氏は、着いた空港で出迎えてくれた人に「ようけにおじゃりあれ」といわれてそれが「夕食に来てください」という言葉だと知り、びっくりしたという。かれもこの方言に取りつかれて、3年間島言葉を収集して、東京に戻って整理して「八丈島の方言」という本を自費出版した。彼はこの島言葉の印象を、優雅な響き、古典でなければ知らない日本の古語の現存。丁寧な敬語と上下の使い分けがはっきりしていることなどをあげている。


d、方言系統の研究

八丈島方言の系統についても、様々な研究がなされてきた。国語研究所の報告書からその一つを引用する。昭和11(1936)。橘正一著「方言学概論」所収丸尾芳男「52・八丈島方言」は日本の各地の言語と比較して・八丈島の言語の系統について述べた。すなわち、八丈島固有の言語のうち・イサナ(東南風)、ナライ(北風)など72語の語彙をとりあげ、それらの語が日本のどのような地域に用いられているかを調べた。その結果として・地方としては東北地方が、縣としては岩手縣と静岡縣とが・もっとも近いということになった。関東地方について見ると「関東の海岸部の方言とは共通性が多いが、東京や山間部の方言とは似ても似つかぬものである」という結果になっている。そこで、八丈島方言は「黒潮方言」とも名つくべきものであるが、黒潮の流れる関東、東海道の海岸とともに「黒潮方言区」を設けることは適当と考えられない。結局、「八丈島方言」は孤立したものと言う外はない、と結論を出している。


「縄文語の発見」を書いた小泉保氏によると、日本語のアクセントは、東京アクセント・京阪アクセントとアクセントのない一型アクセントがある。一型アクセントを温存して
いる地帯が奥羽南部、関東北部八丈島、大井川上流、宮崎北部琉球であり、これは日本語の古層を保存しているといっている。彼の結論は縄文前期に原日本語が生まれ、九州から琉球へとの道筋を述べているが、残念ながら小泉氏は八丈島言葉の研究がふれられないで終わった。

八丈町教育委員会のパンフレットによると、八丈島方言の位置づけについて、次の図でその独自性を説いている。

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by rijityoo | 2015-01-26 13:55 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち」(その2)

目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉



第1部八丈島の島言葉

a まずこの不思議な言葉を聞いてください。

縄文人はこんな言葉を話していたのかもしれません。


あいさつ

1菊池庄之助1890年生農業

男2浅沼行信1893年生農業

女1沖山いちえ1885年生農業

女2山下玉花1898年生農業


1、朝

女1ヤスミヤロワカーイ

よくおやすみでしたか。

男1オー

ええ。

女1キョ一テンキガヨケンテオメャ一ラガモミオロショコガンネガッテメヤラーダイジノードーグデオジャレドー

きょうは天気がいいので、あなたのところのもみおろしをこのようにお願いに来ました。たいせつな道具でしょうけれど。

男1ツケヤラバヨクオジャロジャンウノマーヤノトボーニヒッカケートキーテータラー

お使いになればようございましょう。あの牛小屋の戸ロにひっかけておいてありますから.

女1ドコンオジャルカワカリイタシノアンテオミヤラーミツケテカシテタモアレ

どこにありますかわかりませんので、あなたが見つけて貸してください。.

男1オーホイジャアガトッダシテアゲイタソァワ

ええそれではわたしが取り出してあげましょう。

1ソイジャオカゲサマデカリテメアロワ

それではおかげさまで借りてまいりましょう

男1オー

ええ


2

女1オカゲサマデデアジナドーグーモドシテメアーリイタシターキョ一オテンキガヨクテコゴアニハヤクシミヤイタシター

おかげさまでたいせつな道具を返しにまいりました。今日は天気がよくてこのように早くしまいました。

男1オッカネノハヤクシミヤッター5

たいへん早くしまったね。

女1オカゲサヤデモミモカンゲァ一ヨリモシッカリオジャッテノー

おかげさまでもみも考えたよりもたくさんありましてね。

男1ヨノオジャッタノー

よかったですねえ。

女1オカゲサマデソイジャヤスミヤルタ

おかげさまでそれでは、おやすみなさい.

男1オーソイジャーヤスミヤレー

ええ、それではおやすみなさい。

女1オー

はい


3
道で

女1ンードケーソゴンオジャリヤロ一

おやどこへそうしておいでですか

男1ヤメーシボーカリ一イキイタソァアー

畑にまぐさを刈りに行きますよ

1ゲンキデヨクオジャルノ._..

元気でいいですねえ。

男1オーオカゲサマデジョ一ブデオジャロワ一

ええ,おかげさまでじょうぶでいますよ。

1タマニワアスビーオジャリヤレー

たまには遊びにいらっしゃい。

男1オーホイジャーコノモーリノアメフリンナラバアスッデイキイダソァンテヨ一イ

ええ。それではこの次の雨降りになったら遊びに行きますからね

1オ一ソイジャノァオゲンキデガマンシヤロガーン

はい、それではねえお元気で精を出してください。

男1オー

ええ

中略


まず、まるで能・狂言の世界だ。ゆっくりと格調が高いと感じる言葉だ。

こんにちはのあいさつに近い「オジャリヤロカーイ」(いらっしゃいますか)

おはようございますに近い「ヤスミヤロワカーイ」(よくおやすみでしたか)

で会話は始まる。

その返答は、どんな時も、まるでぶっきらぼーに「オ一」(はい)だ。

聞いたこともないが何か古そうな言葉が出る。

貸してくださいカシテタモアレ

やすやすと生まれましたヤスークヒンナシーテータラー

〝死んでしまいましたマルビーイタシタラ

八丈島町教育委員会の解説では、音節のきれ目を、はっきりさせて、1つずつ区切って発音する傾向が目立つ。ぎくしゃくした音声印象はそのためである。アクセントは、型の区別のない「無アクセント」である。といった特徴をあげている。


b時代による重層言語

会話を聞いていて、われわれにはなじみの言葉が混じっている。逆にこの混在に違和感を覚えるほど、それらは際立っている。それは、「50エン」などの貨幣表現、と「オカゲサマデ」だ。きっとこれらは近代に標準語として入ってきた言葉に違いない。

また昼の弁当を用意するよう妻に言いつける言葉が、「ヒョ一ロ一シマツシトー」である。昼食は「ヒョ一ロ一昼をヒョウラドキという。想像するに、島言葉はアサゲ」「ユウゲしかなかった。彼らの元来は朝晩の二食生活であったことを示しているのだろう。鎌倉時代以降、島が武家支配に入ったとき、彼らが昼食の習慣をもちこみ、昼の弁当を「兵糧」と呼びそれが昼食の言葉となったのだろう。


さらにさかのぼって、秦の始皇帝の使い徐福の同行船が流れ着いて絹織物の技術をもたらしたという伝説がある。奄美大島にも大島紬という絹織物があるから、弥生時代に、相次いで、はるばるとした西からの海洋伝来なのかもしれない。黄八丈は北条が支配した時には、すでに島の産物であり、これに目をつけて献上させたのだから、北条時代より古い伝来である。蚕は「コナサマ」といい、ハルゴ、ナツゴ、アキゴの3回の養蚕ができた。蚕を古くは「コ」と呼んでいたことからきたものである。黄八丈は、古くはタンゴと呼ばれているが、北条の役人が京丹後の織物と同じとみてそう名づけたのかもしれない。


このように八丈島言葉は縄文語に、弥生・中世・江戸・現代と時代ごとに新しい語彙が重なっていったことがわかる。言語の重層は、日本語全体にいえることだが、重要なことは、その重なりがここでは、まるで断層として残って見えるという不思議な言語なのだ。






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by rijityoo | 2015-01-26 07:15 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち」(その1)

縄文語の名残を話していた人たち

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2015/1/21

野口幹夫
1935年生
大阪大学工学部卒業
東芝本社総合企画部長を得て
㈱トプコン常務、監査役
三水会は設立時1979年からの会員  


目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉


参考文献
3


はじめに

数年前から縄文時代の信仰遺跡や古い神社を訪ね歩き、彼ら縄文人の心根が今の日本人にも生きていると身近に感じるようになった。昨年は群馬県の岩宿石器遺跡を訪ね、また北海道宗谷岬の周氷河地形を見る機会を得たことで、思いがけず自分の視野が一挙に広がった。3万年以上前から石器を手にした人類が、ユーラシア大陸から北海道経由で渡来し、日本列島の各地にひろがっていった。彼らは、集団の狩りのわざで、ナウマン象や鹿などの大型動物を追い求め、魚や貝を採って暮らし始めていたが、器用に削った石器で作った道具をつくり、それをもって広い範囲で交流していた。


それから
2万年の長い時間をかけて、土器の文化をつくり、固い木の実も食糧とした。実用からはじまった土器をやがて日本の独自の芸術作品にまで仕上げたが、それ以上に彼らがやり遂げたもっとも偉大な仕事は、「日本語」の原型を作り上げたことだ。おそらくその日本語創生こそが、日本人の生活文化を、世界に類例のない穏やかで、多能で、平和な秩序を大切にする縄文人を仕上げた根本である。その言語の原型はどんなものだったのだろうか。

今回の報告は、その原型である古日本語の名残をとどめた貴重な言語を、つい100年くらい前まで、普通に使っていた人たちの驚くべき存在を紹介したい。


2014
年2月、八丈島に旅行したとき、ここにそのような不思議なことがあるとは知らなかった。江戸時代は流人の島で、その中にいた知識人にとって、この島の八丈方言が、特異なものと認識されて、記録されてきたことは知っていたが、ただの方言の一つとおもっていた。

島から帰る時、みあげもの屋で八丈島方言カルタがあるのを手に取ってみた。そこに八丈町教育委員会の説明がつけられていて、八丈島方言が絶滅の危機にあり、その保存の一助とするため子供用につくったとあり、さらにこの「八丈島方言は縄文人の言葉を残している」の説明文がつけられていた。

にわかには信じがたいことだが、町の教育委員会が書いていることなら、何らかの根拠があるのだろうと思い、その真偽を追求したくなった。


以下はそれが本当かもしれないという調査報告である。


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by rijityoo | 2015-01-25 20:27 |  三水会 便り(5) | Comments(0)