2010年 06月 26日
光の技術の制作者、岡田桑三氏とは・・・・
岡田桑三横浜の商家の娘・よねと番頭の美平の間に生まれる[1]。ドイツ、ソ連で舞台美術、映画、写真の技術を学んだ。日活、松竹で俳優として映画に出演する一方、日本プロレタリア映画同盟、写真・映画団体「国際光画協会」、写真集団「日本工房」などに関わり、プロパガンダグラフ雑誌「FRONT」を発行する「東方社」の創設に参加。多くの映画人、写真家、美術家らに影響を与えた。
主な経歴 [編集]
ドイツ留学から演劇、映画の世界へ [編集]
1903年、東京市赤坂区出身。神奈川県立第二中学校卒[2]。
1922年ドイツへ留学、渡欧の船内で渋沢敬三と知り合う。カイザー・ウィルヘルム芸術アカデミーの舞台美術のアトリエで学ぶ。森戸辰男と知り合う[1]。
1924年帰国。築地小劇場に入る[2]。
1926年4月、日活へ入社、銀幕デビュー[2]。
1928年松竹蒲田に移籍し、二枚目俳優として活躍[2]。
この時期の俳優「山内光」としての出演作
1926年、『陸の人魚』(日活大将軍)
1927年、『鉄腕記者』、『鉄路の狼』(日活大将軍)
1928年、『幼なじみ』、『街頭の騎士』(松竹蒲田)、『けちんぼ長者(ケチンボ長者)』(日活 大将軍)、『輝く昭和』(松竹蒲田)
激動の1929年 [編集]
1929年3月、右翼に刺殺された労働農民党代議士、山本宣治の東京での葬儀の撮影を担当[3][1]。同年、映画技術の視察を名目に、城戸四郎松竹蒲田撮影所長から旅費を工面してもらい、モスクワ経由でソ連に旅行。エイゼンシュテイン、プドフキン、メイエルホリドなどと親しくなる。帰国後、村山知義らと国際光画協会を創設。これを通じて、木村伊兵衛と知り合う[1]。
この時期の俳優「山内光」としての出演作
1929年、『愛人 時枝の巻』、『恋愛風景』、『黄昏の誘惑』、『新女性鑑』(松竹蒲田)
映画・写真運動の展開 [編集]
1930年、寄稿した『プロレタリア映画運動の展望』 (小林多喜二も寄稿、新興映画社編)が大鳳閣書房から刊行[4]。
1931年、「独逸国際移動写真展」をプロデュース[1]。
1933年、名取洋之助を中心に、木村伊兵衛、伊奈信男、原弘らと写真エージェンシー「日本工房」設立[5]。
1941年松竹退社。
東方社から東京シネマへ [編集]
1941年、「東方社」設立に参加し、理事長となる。
1943年3月、理事長を退任。林達夫が二代目理事長となる。
1945年、「東方社」解散。
1949年、戦後、岡正雄らと月刊コミック雑誌『スーパーマン』(コミックス社)を、13号まで刊行。
1951年、「南方熊楠全集」(乾元社、渋沢敬三編)の刊行のために奔走する。
1954年、東京シネマの創業[6]。
1955年、東京シネマ製作の『ビール誕生』(製作:岡田桑三、演出:柳沢寿男、特写:木村伊兵衛、脚本:吉見泰、撮影:小林米作、特技:武田兼之助)がプノンベン・アジア映画祭グランプリ、シンガポール東南アジア映画祭特別賞受賞[7]。
東京シネマの全盛期 [編集]
1958年、吉見泰脚本、小林米作撮影、東京シネマ製作の『ミクロの世界 -結核菌を追って-』がベネチア記録映画祭最高科学映画賞、国際科学映画協会モスクワ大会名誉賞などを受賞[7]。同年、『視聴覚教育』誌に「国際科学映画協会のモスクワ大会に出席して」を寄稿[8]。
1960年、東京シネマ製作の『マリンスノー -石油の起源-』が国際科学映画協会プラハ大会名誉賞などを受賞。
1961年、菊池寛賞受賞[6]。
1962年、東京シネマが科学技術功労賞受賞[6]。
1964年、「東方社」週刊朝日1964年12月11日号の表紙を飾る[1]。
1965年、東京シネマが朝日文化賞受賞[6]。
1967年、東京シネマが製作した2作品についての著作権紛争が発生[9]。これを機会に、産業映画の受託時に著作権の所在を明確化する流れが業界に生まれる。