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科学映像館物語3.「科学映像館」誕生へ~ハードルを乗り越えて~

「科学映像館物語」、第三回はいよいよ設立に向けた具体的な準備へと話が移ります。今回も貴重なお話を伺えればと思います。先生、どうぞ宜しくお願いいたします。

前回は、貴重な価値を持つ科学映画をデジタル化して配信し、広く後世に伝えていこうという考えを持つに至った三つの出会い、いわば背中を押してくれた出会いについてお話ししました。今回は2006年末から2007年初めにかけての設立準備と、設立までに越えなければならなかった幾つかのハードル、そしてそれを乗り越える手助けをしてくれた出会いについてお話しします。

まず組織の立ち上げには何と言っても資金が必要でした。どうしようかと考えていたところ、大学の同級生でもある河田照茂徳島大学名誉教授が、徳島のある企業が支援してくれるのではないかとのことで企画書を提出してみるようにと提案してくれました。2006年末頃のことです。支援は数千万円規模で、急いで企画書をまとめて提出したのですが、企業側の目的とこちらの目的が必ずしも一致しない部分もあり残念ながらこの話もまとまりませんでした。

しかし「骨の健康づくり委員会」でウェブサイトを運営したり、試験的に科学映画20編を配信するなどして培った経験からNPO法人というかたちで立ち上げようということで、2007年初頭に関係者の方と結論を出し、2007年4月1日の設立に向けて準備を進めることとなりました。

第一のハードルは組織の名称をどうするかです。「科学映像館」の名前に決まるまでは多少紆余曲折がありました。まず考えたのは「生命科学映像館」。これは私が「The Bone」、「The Bone Ⅱ」など生命科学分野の科学映画に深く関わっていたことから考えた名前でしたが、ある程度分野が限られるとのことで見送りとなりました。次に考えたのは「映像館」。これは逆に範囲が広すぎるとのことで見送りに。そして最終的に「科学映像館」に決まりました。アナログフィルムをデジタル化して配信するこの科学映像館のロゴは、アナログフィルムとデジタルのDVDをあしらったものとなっています。

現在の「科学映像館」のほかにも候補があったのですね。

2007年1月下旬に無事名称も決まりましたが、次にまとめなければならなかったのは如何にしてフィルムをデジタル化し配信するかでした。

フィルムのデジタル化については複数の企業に見積もりを依頼しましたが、当時は「デジタル化」の捉え方も様々だったようで、映写した映画をそのままデジタルカメラで撮影し「デジタル化しました」というようなところもありました。しかしこれもデジタル化ですね。そんな風に手探りで準備を進めていたのですが、ここでも優れた才能と熱意を持つ人たちと出会ったことでハードルを乗り越えることができました。

一人は株式会社東京シネマ新社の岡田一男氏です。以前からフィルムのデジタル化に強い関心を寄せていた氏に株式会社東京光音を紹介してもらいました。東京光音は当初映画制作会社として出発しましたが、後に日本国内のサクラカラー(後のコニカカラー)の8mmフィルム現像を一手に引き受けるようになったほか、日本テレビ放送網株式会社のニュース映像現像も行っていた会社です。日本で唯一企業とも言える東京光音がアナログフィルムのデジタル化を一手に引き受けてくれることとなりました。

アナログフィルムのデジタル化にあたって、どのような点が大変だったのでしょうか。

アナログフィルムのデジタル化にあたって何が大変かと言うと「フィルムの復元」です。テレシネ作業についてはCINTEL社のテレシネシステム機器などが活躍しますが、作業前にカビや汚れが付着したフィルムを綺麗に復元する必要がある。これは大変な仕事で、決められたフォーマットもなく一本ずつ手作業で行わなければなりません。一本の復元に半年を要することさえあるようです。復元の模様をデジタル復元への挑戦に描いています。身近に貴重な映画をお持ちの方は、ぜひデジタル化して下さい。

デジタル化の仕事を引き受けてくれた東京光音には、優れた才能を持つだけでなく仕事や映像が心底好きというスタッフが数多くいました。その一人が松本一正氏(現:株式会社東京光音フィルム/ビデオ/サウンド/デジタル修復・復元センター所長)です。彼は若い頃から家業の写真館の手伝いをして腕を磨き、20歳の頃に上京しました。そこで門を叩いたのが東京光音だったのです。ここで彼はその経験と才能を遺憾なく発揮することとなるのですが、このような優れたスタッフによる高いレベルの仕事によって、アナログフィルムのデジタル化が可能となったわけです。

昨年の東日本大震災でも数多くのフィルムが海水で汚損するなど大きな被害を受けましたが、同社はこれらのフィルムについても無償で復元を行っています。

また、デジタル化した映像の配信にあたってはレンタルサーバーも必要でしたが、こちらも北海道から沖縄まで何社もの企業に打診しました。郷里の徳島にも二社候補がありましたが、最終的に徳島にあるみの電子産業株式会社に依頼することにしました。お願いした当時の美野健司社長は31歳でしたが、何度も上京して打ち合わせするなど、私の要望にとにかく丁寧に対応してくれました。彼も実家が電器店で、ビデオ映像のデジタル化を趣味として行っていた。やはり映像が好きだったのですね。東京光音の松本氏と美野氏はお互いに相通じるものがあり、びっくりしました。同社は現在1,000社を超える取引企業を抱え、音楽コンサートやライブのストリーミング配信なども手掛けています。

このように優れた才能と熱意を持つ人たちの支援を得たことに加えて、私自身も「骨の健康づくり委員会」でウェブサイト運営や映像配信のノウハウを培っていたこともあり、2007年4月1日の科学映像館設立に向けて、着実に歩みを進めていったのです。

映像が本当に好きで、貴重な価値を持つ科学映像を復元、デジタル化して後世に伝えていきたいという純粋な想いでつながった人たちによって科学映像館ができたのですね。次回も引き続き、科学映像館設立に向けた準備について貴重なお話を伺えればと思います。先生、どうも有難うございました。
by rijityoo | 2012-09-30 22:21 | 科学映像館物語(18) | Comments(0)