2012年 12月 10日
50年前日本で最初の長大橋の架設に挑んだ若き技術者の工事記録
撮影・編集・制作:佐藤一夫 1961年 26分(カラー8mm)
【製作者の声】
人間誰でも一生のうちに素晴らしい生き甲斐を感じる時がある。私の場合、半世紀前(約50年前)32,3歳の頃、橋梁技術者として有頂天になった時期があった。名田橋架設工事との出会いである。
名田橋と云うのは、地名から私が付けた名前。当時、そこに橋はなかった。渡し船が船頭さんの櫓と櫂で漕がれ、小型三輪以下が運ばれていた。徳島市と北岸藍住町を結ぶ幹線。主要地方道第1号線である。
計画された橋の構造は、当時、日本の長大橋では全く経験したことのないドイツ、デイッカホフ ヴィドマン社の特許工法,デイビダーク式PC工法である。この上部桁の大きな重量を支える下部橋脚の基礎には、これまた、当時としては、沈下施工不可能ではないかと云われた深さ32mにも及ぶ巨大井筒が必要であった。若い技術者の私は燃えた。
今から見えれば当たり前、いや、幼稚かも知れないが、当時としては、最先端の技術を駆使して、斬新なアイデアも編みだしたと自負している。この先進技術を余すことなく、後輩へ伝えねばならない。その伝える方法としては、工事写真、工事記録、日誌等。これでは、どうも適切に表現出来ないのではないか。
そうだ!私の趣味である8mmカメラで、プロの映像には及ばないでも、プロには撮れない細部を詳細に記録したい。この一念がこの架橋工事記録に凝集された。撮影技術はお粗末でも,架橋技術上のポイントは逃さず記録出来たと思っている。冗長にも思えるが、これも止むを得まい。
技術の進歩は素晴らしく速い。4カ年の工事期間中にも次々と斬新な改良が見られた。また、ドイツの示方書の受け売りが、日本の建設材料にマッチしない不都合も発見された。日本の橋梁技術の向上に大いに役立ったと思っている。
この撮影を橋梁完成まで追い続ける意味はない。橋梁完成を待たず、この記録映画は完成
をみた。それは記録すべき、先端技術は撮影し尽くしたからである。
今、(50年後)見ると懐かしい“手作りの技術”。私の有頂天の時間は昭和34年~38年。私の生き甲斐は、今もこの“名田橋架設工事記録”に息づいている。
なおこの作品は制作者佐藤一夫氏のご援助によりデジタル化して配信。