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2013年第3回三水会 「カール・ポラニーの思想と現代」(1)

2013年 04月 01日
講師岡本好廣氏
2013年3月27日(水)学士会館306号室2013年第3回三水会 「カール・ポラニーの思想と現代」(1)_b0115553_2247173.jpg

                    
 岡本好廣氏プロフィール
早大卒・学生時代から生協運動に従事、
日本生活協同組合連合会常務理事、
(財)生協総合研究所専務理事を歴任し、
現在、協同組合懇話会常務委員、
ロバアト・オウエン協会理事

1.カール・ポラニーの家系
(1)多くの学者を輩出した英才一家
ポラニーはポランニーとも呼ばれる。父のミハイル・ポラチェクはユダヤ系ハンガリー人であり、ハプスブルグ帝国からの独立を目指して蜂起した「コシュートの反乱」ではゲリラの隊長として、オーストリーを支援したロシアの軍隊と戦った経験をもっている。ハンガリーの独立を企図した反乱に敗れた後スイスへ亡命し、工学を学んでヨーロッパ各地を転々としながら鉄道建築事業で成功した。その後恩赦を受けてハンガリーへ戻り、鉄道建設事業を更に発展させた。

スイスで知り合ったセシリア・ボールと結婚したが、彼女はリトアニアのユダヤ教ラビの娘で、10代からナロードニキに接近してロシアの官憲に追われてスイスに逃れた。その点でミハイルと同じ境遇であった。結婚して7人の子供ができたが、2人は早く亡くなった。娘の1人は第2次大戦中にナチスに代つてガス室に送られて殺されたという。故郷のハンガリーに戻って子供たちにはポラニー姓を名乗らせたが、自らは終生ユダヤ風のミハイル・ポラチックで通した。

子供達はいずれも秀才として知られ、学者や実業者として名をなした。長男のオットーと次男のアドルフは父親にならって工学を修めて実業家になって成功した。オットーはイタリアに移住して有数の実業家になりながら社会主義を目指して活動し、果てはムッソリーニに共鳴して共同体国家を夢見るが、やがて離反、実家からも絶縁された。このためポラニー家では次男のアドルフが長男として扱われている。三男のカールは次男に繰り上がった。姉のローラはブタペスト大学で女性初の博士号を取得した才媛で、その美貌から「麗しのローラ」と呼ばれていたとのことである。母親のセシリアも才能豊かな女性であり、自宅をサロンにして知的な社交の場を組織し、多くのゲストを迎えた。これはミハイルが事業に失敗して亡くなった後も続けられた。こうした厳しい教育環境と知的雰囲気の中で、ポラニー家は数代に亘って多くの学者や科学者を輩出した。

(2)哲学者マイケルとノーベル賞のジョン
直ぐ下の弟マイケルは物理学者、化学者として有名で、両分野でノーベル賞候補に擬せられていたが、突如として哲学、社会科学分野に転向して名をなした。医師になって医学博士、次いで化学博士号を取得した。彼の死後息子のジョン・ポラニーがノーベル化学賞を受賞した。ユダヤ系のためナチスの迫害を受け、イギリスで亡命生活を送った。マイケルの哲学でよく知られているのは、「暗黙知」である。物事を発見するときには現行の知識が基礎になることが多いが、それを促して浮かび上がらせるのが「暗黙知」だとする。科学的発見や創造的な仕事に作用してそれらを生み出すものである。「知るということ」と「在るということ」の間に存在し、それがスパークして新たなものを生み出す。この間にあるものが「暗黙知」である。「暗黙知」は自然科学にも社会科学にも適用できるものである。これを生み出すものは暗黙脳であり、潜在脳である。これが合理的思考の基礎になっていることが最近の脳科学で確かめられているようである。こうした学際的な研究成果は医者であり、化学者である立場から実証的に生み出されて哲学にまで発展したものであり、マイケル・ポランニーの独壇場と云えるものである。彼は哲学だけでなく、経済学、社会学でも独自の分野を開拓している。

2.カール・ポラニーの辿った道
(1)学生運動から弁護士へ
カール・ポラニーは厳しい道を歩んだ。両世界大戦の間に生きたという時代背景と、時代に逆らっても自分の信ずるものを守ろうとしたことによる。最初の受難は14歳の時に父ポラチックの事業が倒産して家計が窮地に陥ったことである。そのため授業料は奨学金と家庭教師の収入で賄い、弁護士を目指してブタペスト大学法学部へ進んだ。そこで学生運動に身を投じて右翼学生との乱闘に巻きこまれて停学処分を受けた。そのため一旦他の大学へ移った後に復学した。復学すると「ガリレオ・サークル」という団体を組織し、進歩派の学生を糾合して文化啓蒙運動を展開した。既に兄のアドルフは社会主義を標榜する学生運動を組織しており、ポラニー兄弟はブタペスト大学の社会主義運動・反体制運動を指導した。当時の社会状況は1866年に普墺戦争でオーストリーがプロイセンに完敗し、ハンガリーと組んで「オーストリア=ハンガリー二重帝国」を作り、帝国の崩壊を食い止めようと懸命になっていた時代であった。これはハンガリーの意識ある国民、特に正義感に溢れる学生にとっては受け入れ難い屈辱であった。学生時代はもとより、弁護士になってからもハンガリーの独立は切り離すことのできない運動になった。

第1次世界大戦が始まるとポラニーは1915年騎兵将校として従軍し、ロシア国境に近いガリシア戦線での戦闘で負傷した。長期に渡って療養したが回復せず、ブタペストからウイーンに移り、ここで後に結婚することになるイローナ・ドゥチエンスカに巡り会った。イローナは教養のある反戦活動家で後に離党するが、当時は共産党員であった。イローナはブタペストの兵器工場や兵舎で反戦ビラを撒いて逮捕されて有罪となった。1918年「第一次ハンガリー革命」で釈放されたが、その後厳しくなった反ユダヤ政策でブタペストを離れ、ポラニーと同じようにウイーンに移った。その後ポラニーは[オーストリア・エコノミスト]の副編集長に迎えられた。

(2)ドラッカーとの深い信頼関係
ここでポラニーは後にアメリカ行きの機会を作ってくれたピーター・ドラッカーに会う。ドラッカーは18歳の時に書いた論文が話題になり、『オーストリア・エコノミスト』の編集会議に招かれたのがきっかけである。そこでポラニーと知己になり、以後その関係が続くことになる。

ドラッカーは著書『傍観者の時代』でポラニーについて次の様に書いている。「(1,927年のクリスマスの日だった。)彼は会議終了後自宅でのクリスマス・ディナーに 誘ってくれた。イローナ夫人とその母、や女の子に迎えられたが、出された夕食は私に とって生涯最低の食事だった。マーガリンもないジャガイモだけの食事だった。それが カール・ポラニーのクリスマス・ディナーだった。だが、誰も食事に関心を示した者は いなかった。8つの子を含め、4人が翌月のやりくりについて話を始めた。ところが、彼 らが問題にしていた額は、ハンブルグで商社員見習いになっていた私1人の自活にも足 りないような額だった。(私はカールが副編集長として高額の給与を貰っているのを知 っていたので、あれだけあればどうということはないと思いますが)と云ってしまった。」

そうするとほとんど声を合わせたかのようにいった。「カールのお給料をわたしたちの ためにつかうなんて」「ハンガリーからの難民があふれ返っています。食べられない人 が大勢います。ですから小切手は人にあげて、私たちの分はなんとかするのが、当たり 前のことなんです。」さらにドラッカーは「大義を同じくする一家」として詳述する。

「カール自身は5人兄妹の4番目だった。私は、このポランニー兄妹ほど優れた一家を 知らない。あれほどまでに多くのことを成し遂げた一家も知らない。全員が名をなし、 大きな足跡を残した。しかし、彼らの本当のすごさは、自由でありながらブルジョア的 でもリベラルでもない社会、繁栄しつつも経済に支配されない社会、協同体でありなが ら、共産的でない社会の実現という、同一の大義を奉じたところにあった」
(ピーター・ドラッカー『傍観者の時代』上田淳生訳 ダイヤモンド社刊)

ドラッカーはカールより13歳下である。しかし年齢差を越えた深い信頼で結ばれていた。2人ともオーストリー=ハンガリー二重帝国に生を受けたといっても、一方は宗主国、一方は属国の出といった関係である。それにも拘わらず厚い信頼で結ばれていたのは、両者がユダヤ人の家に生まれたという共通の基盤によるものだと思われる。ドラッカーもナチスに追われ、イギリスを経てアメリカへ渡った。ナチスの標的になる危険が迫っていたポラニーを後にアメリカに呼び、『大転換』の執筆を保証したのはドラッカーであった。

(3)アメリカで『大転換』を執筆
第1次、第2次と2度の世界大戦に翻弄されたポラニーはナチスの迫害を逃れてイギリスに渡った。すでにイローナと結婚していたが、妻と幼い娘カリーを残しての単身渡英であった。イローナはウイーンで反戦運動に従事し、以前研究していた物理学と工学の勉強を再開した。この後イローナもイギリスに渡り、2人は次いでアメリカとカナダへ行くことになる。1940年にポラニーは招かれてアメリカで講演したが、この後ドラッカーの助力でペニントン大学で経済史を教えることになってアメリカへ移り、妻のイローナも同じ大学で物理学を講ずることになった。

後にコロンビア大学に移ることになるが、その仲立ちをしたのもドラッカーであった。代表作『大転換』の構想はイギリスで資本主義の猛威を経験し、それをオックスフォード大学とロンドン大学の成人教育で講義したことがきっかけになった。1941年から2年間ペニントン大学に籍を置きながら、ロックフエラー財団の研究奨学金を得て執筆に専念し1944年に完成し刊行された。新古典派経済学でもなく、マルクス経済学でもない制度的分析が中心のこの本は、既存の経済学からすれば異端である。そのため当初は殆ど話題にもならず、注目され始めたのは死後のことであった。

刊行後30年を経た1973年にはアメリカ学士院が選定した[20世紀の古典]16冊のなかに入れられた。アメリカだけでなく、いろいろな言葉に翻訳されて世界中に広まるようになった。始めて日本訳が出版されたのは1,975年で、2012年に『新訳・大転換』(野口建彦・栖原学訳 東洋経済新報社2009年 )が刊行された。新訳は2001年に刊行された英語版に依っている。冒頭にノーベル経済学賞を授賞したジョセフ・スティグリッツの序文が掲載されているのでその1部を紹介する。

「本書は、ヨーロッパ文明の工業化以前の世界から工業化時代への大転換、およびそれに ともなう思想、イデオロギー、社会・経済政策の変化を記述している。ヨーロッパ文明が 果たした転換は、今日、世界の発展途上国が直面した転機に類似しているので、往々に して、あたかもポラニーが直接現代の諸問題を論じているかのように感じられる。…彼 の提起した問題や対極的な観点は、重要性を失っていない。彼の提起した中心的命題は、次のようなものである。

すなわち、自己調整的市場はけっして機能しない。また、自己 調整的市場の欠陥は市場内部の作用においてのみならず、その作用の影響-例えば貧困 者に取っての影響-においても極めて重要なため、政府の介入が不可欠になる。…ポラ ニーが複合社会における自由の問題についての議論で本書を締めくくっているのは、極 めて適切である。…地球社会が今日直面している課題は、こうした自由の不均衡を是正 できるかどうかである。―もはや手遅れとなる前に。」

3.『大転換』でポラニーが主張したこと
(1)疑似商品としての労働、土地、貨幣
19世紀のイギリスは産業革命に先行した農業改革で食糧増産が進み、農村の人口が増えた。産業革命で農村にあふれた人びとがマンチェスターなどの大都市周辺に出てきて織物工場の労働者になった。労働は過酷で子供から年寄りまで一家総出で働かなければ暮らしていけなかった。「労働」「土地」「貨幣」を商品と見なす「市場経済」が勃興しようとしていたのである。経済は本来人間の社会生活の一部分を担当するものであったが、本末転倒して「市場経済」が社会そのものを支配するようになった。それを推し進めたのが「労働」「土地」「貨幣」の商品化である。ポラニーは労働、土地、貨幣の本源的性格について次のように云っている。「労働は人間の別名であり、土地は自然の別名である。貨幣は計算尺度であり、交換手段である。いずれも本来の商品ではなく疑似商品であり、これらを本来の商品よりも重視するのは経済学の虚構に過ぎない」更に次のように指摘している。

「労働を、人間生活においてなされるそれ以外に活動から切り離して市場の諸法則に従わせるということは、人間のあらゆる有機的な存在形態を壊滅させ、それをタイプの異なる、個別・細分化された、個人主義的組織に置き換えることであった。」

「われわれが土地と呼ぶものは自然の一要素であり、人間の諸制度に分かちがたく組み込まれている。その土地を切り離し、そのために市場を創るということは、われわれの祖先がなしたあらゆる所業のうちでおそらくもっとも異常なものであったといえよう。」「市場の没落が貨幣分野ほど突然生じた分野はほかになかった。1931年9月21日のイギリスに生じた金本位制の放棄に匹敵するような出来事はなかった。金本位制の最終的な破綻は、市場経済の最終的な破綻でもあった。」(いずれも『新訳 大転換』から引用)

やがて「市場経済」は“自己調整的市場”として「19世紀文明」を導き出した。「自己調整的市場」とは経済が政治や社会に影響されることを拒み、逆に市場経済が社会を包み込んで支配する制度である。そしてその暴走が第1次世界大戦を引き起こし、世界大恐慌を招いて、ナチズムの勃興を許して第2次世界大戦に至った。戦争と恐慌、そしてファッシズムは「市場経済」の行き過ぎを制御できなくなったために生じたのである。ポラニーはこうして19世紀文明は崩壊せざるを得なくなったとする。しかしその後「自己調整的市場」は「経済社会」を形成し、社会全体を支配して現在に至っている。

(2)「人間の経済」の重要な位置づけ
ポラニーは『人間の経済』-市場社会の虚構性 のなかで次のように述べている。
「人間は生存の手段を得るために最終的には自然に依拠しなければならないが、その依存が市場のコントロールのもとに置かれるようになった。市場はもっとも強い力をもつ制度的産物であり、自らの経済メカニズムのなかに埋め込まれたひとつの全社会-市場社会をつくり出した。…労働者の飢えの恐怖と雇用者の利潤への魅力がこの巨大なメカニズムを運動し続ける。…商品の価格は市場で形成されたものでありさえすれば「公正」であることになった。」(『人間の経済Ⅰ』-市場社会の虚構性 第1章 経済主義の誤謬 玉野井芳郎・栗本慎一郎訳より )

さらにポラニーの論文集である『経済の文明史』でポラニーは次のように指摘している。「人間は経済的存在ではなく、社会的存在である」といったアリストテレスは正しかったが、市場経済はそれを崩そうとしている。経済的自由主義の3つの教義が確立され、市場経済がその原理にもとづいて組織されるにいたった。
①労働はその価格を市場で設定されるべきこと。
②貨幣は自動調節的なメカニズムによって供給されるべきこと。
③商品は自由に国際的に流通されるべきこと。
このようにして社会関係のなかに埋め込まれていた経済システムから、社会関係が経済システムに埋め込まれてしまった。」(『経済の文明史』「市場主義とは」玉野井芳郎 平野健一郎編訳より)

ポラニーは「経済人類学」の創始者と云われている。経済学は希少な手段から目的の最大化に至る最適経路を解明する学問であるとされ、そこから経済合理主義の法則が導き出される。それに対して社会の非経済的な要素にも目を向け、全体構造との関連で経済活動を分析しようとするのが「経済人類学」である。いわば「人間の立場に立った経済学」であり、経済の語源である 経世済民=世の中を治め、民衆を救うを目的として追求する。そこから「経済社会」がもつ非人間的な側面を厳しく批判し、「市場原理主義」的考え方と行き方を糾弾するのである。

ポラニーの時代には16世紀から18世紀にかけての保護的「重商主義」が「自由貿易主義」に形を変えて発展した。自由貿易は世界市場を求めて、立ちふさがる壁を1つ1つ打ち壊していく。そこに「グロ-バリゼーションの原型」をみることができる。ポラニーは『大転換』を「市場経済」及び「経済社会」を資本の側と、それに対抗する社会の自己防衛運動の過程として示した。自己防衛運動の側はチャーチスト運動、労働運動、協同組合運動などとの関連で示している。そこでポラニーが尊敬の念を込めて何度も取り上げているのがロバアト・オウエンである。

(3)ロバアト・オウエンに対する評価
ロバアト・オウエンは1771年にイギリスのウエールズに生まれた思想家であり、社会改造運動の実践家であって、「協同組合運動の父」と呼ばれている。オウエンが生きたのは産業革命によって社会が大きく変わる時代であった。蒸気機関の発明によって綿織物の生産が手作業から工場制労働に代わり、農村を追い立てられた人びとが労働者になって働いた。労働条件は劣悪で、10歳に満たない子供を含む家族全員が働かなければ飢えを凌ぐことができなかった。

オウエンは紡績工場の経営者として成功を収めていたが、こうした労働者の惨状をみて改革に乗り出した。農農業、酪農、生産、消費などの協同組合や学校を作って人びとの生活を支えた。また「工場法」の制定運動を推進して、労働者の待遇と働く環境の改善に努力した。環境が人間の性格形成と密接な関係があるとして、環境改善の活動に取り組んだ。後に生産、消費、共生の理想郷の建設を目指して同じ志をもつ人びとともにアメリカへ渡って「ニューハーモニー協同村」を建設したが、失敗に終わった。日本では53年前に「ロバアト・オウエン協会」が設立され、オウエンの研究とその理念を推進する活動を行っている。私はこの協会の理事をしており、ポラニーが『大転換』を始めとする著書の中でオウエンを高く評価しているのを嬉しく思っている。その幾つかを紹介したい。「人間の可能性が市場の法則によってではなく、社会自体の法則によって制限されていることを認識したのはオウエンであった。」

「ロバアト・オウエンほど産業社会の領域の中に奥深く足を踏み入れた思想家はほかにいなかった。」「ロバアト・オウエンの洞察は的を射ていた。彼は、市場経済が自己の法則に従って推進されるならば、巨大で永続的な害悪が生み出されることを予見したのである。」「社会の認識は、産業社会を生きることを通してわれわれに示されたのである。誰か1人の名を挙げてこの偉大な啓示の功績をその人に帰することはできないけれども、おそらくそれに最も近い立場にあるのはロバアト・オウエンであろう。」(いずれも『大転換』)
「新しい世界が旧世界を飲み込みつつあるのを、最初に見据えたのはロバアト・オウエンである。」(『人間の経済Ⅰ』)
by rijityoo | 2013-04-01 21:05 |  三水会 便り(5) | Comments(0)