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第4回三水会便り「縄文の祭り」

縄文の祭り
 縄文1万年の熟成を経た日本の心のルーツ
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2013年4月17日 三水会
講師 野口幹夫氏
1935年生
大阪大学工学部卒業
東芝本社総合企画部長を得て
㈱トプコン常務、監査役
三水会は設立時1979年からの会員    
          
  序

2008年出雲大社を訪問したことがきっかけで、日本の神社の特異性に興味を抱き、1年かけて神奈川県の神社を中心に訪ね歩いた。初めには予想もしていなかった発見があった。それらをまとめて2009年1月に三水会に発表し、その後インターネットで公表した。意外な人が、読んでくれて共感しましたとの反響もあった。
そのまとめを要約すると次のようになる。

1、日本の神社は縄文時代にそのルーツが有ると発見した。

2、弥生時代から歴史時代に入って、神社はその時代ごとの支配者の道具になるよう変質させられた。

3、しかしその根源は覆われつつも残り、日本独特の神社の宗教的本質となった。

4、数学の言うフラクタクル現象のように、日本全国どの神社も同じ形をしており、また総体としての神社宗教も同じ姿をしている。

5、しかもそれは日本以外にないものだ。朝鮮半島にも中国を含めた東洋にもなく、無論世界のどこにもない特別なものとなっている。

6、神社宗教は、他の信仰の邪魔をしない性格で、日本人はどの宗教に入ったとしても、正月の風習とか、鎮守の森や山などの自然に宗教的といってもいい敬意を払うといったように強固なDNAとして埋め込まれている。その宗教体質は日本人の固有の性格を形作っているといえる。

 このような結論に達したからには、更にその根源が縄文時代にあるならば、その信仰を探らなければならなかった。2010年から2012年にかけて各地の縄文遺跡を訪ね歩いた。日本の縄文遺跡は、すでに江戸時代から発見され続けているが、明治にはいってドイツ人モース博士が大森貝塚を発見してからは、近代的な学術手法で発掘調査されるようになった。その後の国土開発で失われた遺跡も多くあるが、それでも文化庁の規制で、遺跡が発見されると一時工事が停止されて、最低限の調査が行われるなどの保護の手が打たれてきた。今では各地で縄文遺跡は、村おこしや観光名所として利用されるなど、熱心な遺跡保存が成功している。専門家考古学者による縄文遺跡調査と記録も進んでいて、有名な遺跡には博物館が作られ、その学術成果も見やすく展示されている。したがって我々素人でも接しやすくなっている。
 
 しかし各地の縄文遺跡の調査結果をみると、大きな欠落がある。縄文人の生活状況は次第に明らかになったが、縄文人がどのような精神生活で、どんな宗教的行動をとったかについての考察は少なく、諸説がおずおずと出されているだけである。その心がわからない限り縄文人はジオラマの人形でしかなく、縁のない別の世界の人間のような存在でしかない。

 縄文人の心の探求がないのは、科学的研究に宗教はなじまないとされているためかもしれないし、また縄文人が文字を持たなかったので、精神活動の記録がないからでもあろう。そのような中でも梅原猛氏は縄文の信仰をテーマとして追求している。彼が館長を務めている三方湖縄文記念館の展示は梅原氏の主張に沿って作られていて、縄文信仰についても正面から語られている。ここで梅原氏は、縄文人の信仰は「蛇」信仰だという。縄文土器の文様に蛇がくり返し出てくることからの推定だ。それを裏付けるように、例えば諏訪地方の土着神とされるミシャクジ神は蛇のようだ。シャーマン的宗教に馴染みそうな話である。しかし私はそれには納得できそうにない。

 私は今回の調査旅行で、シャーマン的宗教とは全く違う縄文精神に行き当たった。それは各地に残る縄文時代の巨大構築物が何を目的にして作られたのかをさぐることで発見した結論だ。有名な三内丸山の6本柱、金沢市街のカナモリ遺跡の巨木木柱列、秋田の大湯や町田市、伊豆市の環状列石遺跡などの巨大構築は、驚く程共通で、かつ太陽の出入りを記念するというはっきりした目的を持っていた。縄文集落は日本各地で交流があったから、お互いに教えあったこともあっただろう。日本各地で同じ目的のために、違った構築物が作られたことは驚くに値する。
 
 このような巨大装置の構築は、まず指導者が存在しなければならない。彼は数千年の村落の経験知識から太陽の動きを熟知してしていた。彼は縄文村落の民衆をまとめる力を持っていた。それはむつかしいことではなかった。なぜなら縄文民衆が共通に持っていた心であったから、語れば簡単に皆の同意がえられたからだと思う。残された遺構から見てそれらは何世代にもわたっての力を結集して作られたものだ。現代では、まずこのような素朴な狙いでは人々が動かないし、またこんな巨木も得られない。二度と生まれない日本人の偉大なモニュメントである。にもかかわらず、現代の考古学では「それが何のためかはわからない」というのが大方の結論だから寂しい。その意味を再発見しないかぎり、日本人の奥底の心が発見されない。
 
 それを今回探り当てることができたと確信できるのは、現地を訪ね歩いて、そこに残された詳細な記録図を入手できたことと、その図面をグーグルマップと「日の出日の入りマップ」というインターネットツールで解析できたからだ。グーグルマップは、伸縮自在に遺跡の周辺の地図情報を与えてくれる。巨大遺構の示す方向に何があるかや、遺跡の標高や周辺の山々と河川などの地形を見定める目を与えてくれる。またPCRICE社というグループが無償で発表している「日の出日の入りマップ」という優れたソフトは、世界中のどの地点でも、瞬時にその日の日の出、日の入りの方向と時刻を教えてくれるばかりでなく、夏至冬至の日の出日没線を常時参考に図示してくれるのである。この二つは、遺跡を宇宙から観察することができたようなものだ。これはおそらくこれまでの考古学者が手にすることのなかったツールである。

 そのようにして得られた結論を先に述べると、縄文人の宗教はこれまで言われてきたような、呪術者が密かな空間で行うようなシャーマニズムとは無縁であった。それとは逆に、オープンな大衆動員型の祭りがその中心であった。今に伝わる日本の熱狂的な祭りの祖型がそこにある。
 
 その祭りの舞台は、縄文部落の周辺に存在する彼らの聖地だ。それはそれぞれの集落に恵みをもたらす山岳や泉などが、特別の日の太陽によって照らされるのを見ることのできる聖地である。そしてそれを望む巨大な装置が近傍に住む縄文人たちの大動員によって作られた。
 
 祭りの時は、太陽の恵みに思いをすることのできる冬至夏至だ。その太陽の出入りの時刻を中心に、縄文人は住居を出て、聖地に集まり、皆が何世代にわたって作り上げた巨大モニュメントに、その時が現れるのを待ち、記念して、総出で祝い騒いだ。それは今も日本人が持っている祭りという祝祭型の宗教であったのだ。この結論に至った縄文遺跡の主に巨大構築物について第1部で詳しく述べよう。
 
 ここでぐっと親しく感じられるようになった我らの祖先縄文人たちであるが、1万年以上続いた緩やかに流れた時間の中で、暇さえあれば華麗な土器作りの楽しみに励んでいた彼らに突然のように新時代が訪れた。大陸から渡来した弥生文化人との遭遇である。それは日本列島を変えるような時代の到来であったが、それが意外にも、敵対する姿勢はなく、逆に平和でかつ敬意を持って受け入れたのである。その様子を第2部で述べたい。それを物語る舞台が諏訪大社であり、羽咋大社である。いま日本に残る神社の祖型がこの時に形作られたと見えた。

 第2部に述べる縄文人と弥生人との出会いと、その受け入れと和合のこころが、今のあなたや私のこころの原型を示すものである。

 日本神話に残る争いと征服の物語は、そのあとの第2波、第3波として到来した大陸部族間の関係を物語っているのだ。弥生時代以降、農耕文化が定着し、富の蓄積が生じてからだからこその争いの登場である。今回のこのモノグラムはそれ以前の幸せな時代を記念するオマージュだ。

第1部 縄文の祭り 三内丸山、能登金沢の遺跡が物語るもの
 1-1 三内丸山遺跡の巨木6本柱と岩木山
 1-2 深谷の組石遺跡
 1-3 北陸の列柱遺跡
 1-4 環状列石遺跡


第2部 縄文から弥生へ 諏訪神社が物語るもの
 2-1 出雲族
 2-2 猿田彦神社
 2-3 羽咋市の気多大社(コタ=滞在した)
 2-4 諏訪地方(サハ=平野)サハ→サワ→スワ
2-5 縄文人の弥生化とともに旅する神様


この内容はすべてこちら
に載せましたので、ご覧ください。


3、結び 
 神社が移動していったということは、弥生文化に飲み込まれていった縄文人たちが農耕民化して、平野に降りて行った時に自分たちの祭り神も一緒にもっていったことを示しているのだろう。この連続性が示していることは、縄文人は決して征服されて消されたわけではなく、彼らが見事に弥生人となっていったことを示している。むしろ弥生社会の担い手たちはかっての縄文人たちなのである。
 
 初めに縄文人に接したのが出雲族であったことは、幸運であった。神話にも語られているように出雲族は国作りに熱心で、鉄の生産や農耕の技術を社会に植え付けるリーダシップにとんでいた。重要なことは戦いを好まなかったことだ。平和で友好の雰囲気の中で接してくれたので、縄文人たちは、出雲族をリーダーとして奉り、気持ちよく指導者としての役割を果たさせた。これは縄文人の見事なフォロワーシップといえよう。模範的なリーダーシップとフォロワーシップの関係が、初めの縄文から弥生の移行期にあったのだ。
 
 諏訪族は出雲の支流だが、本体の出雲族も北陸や日本海に面した出雲王国から南下した。京都を通り、鴨(加茂)一族を置き、大和に至って卑弥呼王朝を築いたのも彼らであった。大和の三輪山の神体は出雲の神だ。
 
 ハッピーな移行期は、別の弥生族が九州に上陸したことで終わり、戦乱の時期を迎えた。そして記紀に書かれたように、天孫族の勝利で終わったこの国の歴史時代が始まる。その後も支配者間の争いがこの国の歴史となってしまった。

 しかし縄文人はフォロワーシップを大切にして、歴史の底流をしぶとく太く生き抜いた。幸か不幸か日本人の気質にはそれが色濃くのかっている。今も日本人は米国をリーダとし、良いフォロワーの役割を果たしていかなければ落ち着かない。サイレントマジョリティとも言われる大勢も、そのような縄文人気質かもしれない。政治や経済は、リーダーシップをもちたがる弥生人気質にまかせればいい。しかしどっこい、こちらは全く別次元の分野の芸術や祭りの世界で、大いに生きる力を発揮させてもらう、それこそが人間の本分だと考えるのが縄文人気質だ。
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 日本人は、かくして縄文人であり、同時に弥生人でもある。日常は弥生人として冷徹に生き、いざ祭りになれば、生きがいをここにすべて賭けるような情熱的縄文人にもどるのである。祭りには何年もかけてできるだけ大掛かりの仕掛けを準備し、当日近くになれば練習に日時を費やし、そして爆発させるのである。そこには縄文人の顔が蘇っているのだ。東北のねぶた祭り神田の三社祭、私の地元の茅ヶ崎浜降祭など、全国どこにでも見られる風景だ。

 元来山とか巨岩とか泉を聖地とし、鳥居や柱で印をしたのが、縄文に由来する日本の神社の原型であったのが、弥生時代に、この聖地に指導者・支配者をたてまつり、祭神としたとき、オヤシロをもつ日本の神社は完成した。どこの神社も神話に出てくる神のどれかを祭神としつつも、参拝する人たちは、祭神が誰かにはあまり頓着せず、「何事のおわしますかは知らねども、ありがたさに涙こぼるる」という日本特有の神社信仰が生まれたのだ。たてまつっておいて、そして忘れる。見事な棚上げ思想だった。

 
by rijityoo | 2013-04-25 12:52 |  三水会 便り(5) | Comments(0)