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カテプシンK物語(24)補足-カテプシン“O”が誕生していた?―

今月11月末、或る製薬会社が主催する研究会で「カテプシンK発見への道のり」と題してお話をすることになった。現役時代の発表は表舞台のみで、その裏では誰が何を思い、何を行い、そして何が起こっていたのかについて触れる機会は極めて少ない。そこで研究に取り組んだ20年間を振返り、カテプシンK物語に補足を加えることにした。


まず「科学映画の父」とも言える小林米作氏との出会いがなければ、我々は骨の研究とは縁がなかったと思う。小林氏と出会い骨の科学映画の製
作に関わり、骨の生きた営みを明らかにすることができたことが切っ掛けとなり、骨の研究に取り組むことになった。当時、映画の撮影材料に

ラットの代わりにマウスを偶然使用したことから(大学の動物舎に適当なラットがおらずマウスを使用した)破骨細胞の研究へと進むこととなった。そして自治医科大学の須田年生先生と出会い、破骨細胞の起源の解明へと、さらに破骨細胞の骨代謝における役割の解明へと「真っ向勝負」することになったのである。


そこで、若く優秀な分子生物研究者である手塚建一君との出会いがなければ、我々は新しい酵素(カテプシン
K)を発見することは不可能であった。この研究は彼の言葉を借りれば「前人未到の手法」を用いたものであり、ほぼ連日失敗と方法の改良の毎日であったようである。実験ノートには“Failed!”“Give up!”の文字が並んでいる。それでも半年後にはOc-1を、1年後にはOc-2の分離に成功し、特にOc-2の分離にはクローン数も少なく困難を極めたようである。偽遺伝子の可能性もあり最初からやり直した結果、最初に拾い上げたクローンに含まれていたようであり、彼

はビギナーズラックであったと記載している。2個のクローン分離は小生の無知と無鉄砲、手塚君の冷静沈着でありながら未到のゴールに向かうチャレンジ精神から生まれたと言って差し支えないだろう。もし他のグループの人たちが試みたとしても、数年―いや永遠に―同様の結果は得られなかったかもしれない。


その後、当時の山之内製薬株式会社(現:アステラス製薬株式会社)の川島氏らと、ヒト巨細胞腫から同様の手法を用いて破骨細胞に発現する遺
伝子のクローニングを行ったが、骨破壊に直接関わりそうなものは見つからなかった。カテプシンOc-2のクローニングは、手塚健一氏の冷静かつ大胆なチャレンジ精神であるとともに、稀に見る幸運にも恵まれたことが奏功したことでもあった。


我々はウサギから破骨細胞を採集したが、もしヒト巨細胞腫の情報をキャッチしてその腫瘍を入手していたとすれば破骨細胞の収集は至って容易
であったこと、またヒト遺伝子情報も豊富であったことから、少なくとも3年早く新酵素を同定し“カテプシンK”ではなく“カテプシO”が誕生していたことは間違いない(カテプシンの命名は酵素の主要臓器の頭文字一字を付す習わしがあったが、同時期に卵巣から同定された酵素がカテプシンOと命名されており、仕方なく研究者久米川のKを付したのである)。


当時のスタッフ一同、他大学、会社からの優秀な若い研究者が参加し、活気あるチームカテプシンKを構成していた。見るからにユニークなメンバーで使用。実験中、一応白衣は着用していました。右写真の右から2人目が手塚建一君、寒いのに秩父まで魚釣りにでかける。地元の筆者はもっぱら運転を担当。
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しかし、我々が行ってきた研究成果から骨粗鬆症の治療薬が近々生まれ、多くの方を救うことになろうとは夢想だにしなかったことであり、誇りとするものである。これまでを振り返るにつけ、多くの方との出会いや発見のタイミングといった、さまざまなチャンスの歯車がうまくかみ合わなければ、ここまで来ることは到底できなかったとの感慨を禁じ得ない。

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by rijityoo | 2014-11-13 13:05 | カテプシンK物語(23) | Comments(0)