人気ブログランキング | 話題のタグを見る

三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち」(その1)

縄文語の名残を話していた人たち

三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち」(その1)_b0115553_20331518.png

2015/1/21

野口幹夫
1935年生
大阪大学工学部卒業
東芝本社総合企画部長を得て
㈱トプコン常務、監査役
三水会は設立時1979年からの会員  


目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉


参考文献
3


はじめに

数年前から縄文時代の信仰遺跡や古い神社を訪ね歩き、彼ら縄文人の心根が今の日本人にも生きていると身近に感じるようになった。昨年は群馬県の岩宿石器遺跡を訪ね、また北海道宗谷岬の周氷河地形を見る機会を得たことで、思いがけず自分の視野が一挙に広がった。3万年以上前から石器を手にした人類が、ユーラシア大陸から北海道経由で渡来し、日本列島の各地にひろがっていった。彼らは、集団の狩りのわざで、ナウマン象や鹿などの大型動物を追い求め、魚や貝を採って暮らし始めていたが、器用に削った石器で作った道具をつくり、それをもって広い範囲で交流していた。


それから
2万年の長い時間をかけて、土器の文化をつくり、固い木の実も食糧とした。実用からはじまった土器をやがて日本の独自の芸術作品にまで仕上げたが、それ以上に彼らがやり遂げたもっとも偉大な仕事は、「日本語」の原型を作り上げたことだ。おそらくその日本語創生こそが、日本人の生活文化を、世界に類例のない穏やかで、多能で、平和な秩序を大切にする縄文人を仕上げた根本である。その言語の原型はどんなものだったのだろうか。

今回の報告は、その原型である古日本語の名残をとどめた貴重な言語を、つい100年くらい前まで、普通に使っていた人たちの驚くべき存在を紹介したい。


2014
年2月、八丈島に旅行したとき、ここにそのような不思議なことがあるとは知らなかった。江戸時代は流人の島で、その中にいた知識人にとって、この島の八丈方言が、特異なものと認識されて、記録されてきたことは知っていたが、ただの方言の一つとおもっていた。

島から帰る時、みあげもの屋で八丈島方言カルタがあるのを手に取ってみた。そこに八丈町教育委員会の説明がつけられていて、八丈島方言が絶滅の危機にあり、その保存の一助とするため子供用につくったとあり、さらにこの「八丈島方言は縄文人の言葉を残している」の説明文がつけられていた。

にわかには信じがたいことだが、町の教育委員会が書いていることなら、何らかの根拠があるのだろうと思い、その真偽を追求したくなった。


以下はそれが本当かもしれないという調査報告である。


by rijityoo | 2015-01-25 20:27 |  三水会 便り(5) | Comments(0)