2015年 01月 26日
三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち」(その2)
目次
はじめに
第1部、八丈島の島言葉
aまずこの不思議な言葉を聞いてください。
b 時代による重層言語
c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている
d方言系統の研究
第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説
a 日本列島に渡来した人間たち
b 日本石器語をもって日本列島縦断
c 縄文語とアイヌ語の分離
d 日本石器語から縄文標準語へ
e 縄文語に弥生時代の試練
第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか
a八丈島の縄文遺跡
b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。
c その後の遮断で保存された縄文語。
d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉
第1部八丈島の島言葉
a、 まずこの不思議な言葉を聞いてください。
縄文人はこんな言葉を話していたのかもしれません。
あいさつ
男1菊池庄之助1890年生農業
男2浅沼行信1893年生農業
女1沖山いちえ1885年生農業
女2山下玉花1898年生農業
1、朝
女1ヤスミヤロワカーイ
よくおやすみでしたか。
男1オー
ええ。
女1キョ一テンキガヨケンテオメャ一ラガモミオロショコガンネガッテメヤラーダイジノードーグデオジャレドー
きょうは天気がいいので、あなたのところのもみおろしをこのようにお願いに来ました。たいせつな道具でしょうけれど。
男1ツケヤラバヨクオジャロジャンウノマーヤノトボーニヒッカケートキーテータラー
お使いになればようございましょう。あの牛小屋の戸ロにひっかけておいてありますから.
女1ドコンオジャルカワカリイタシノアンテオミヤラーミツケテカシテタモアレ
どこにありますかわかりませんので、あなたが見つけて貸してください。.
男1オーホイジャアガトッダシテアゲイタソァワ
ええそれではわたしが取り出してあげましょう。
女1ソイジャオカゲサマデカリテメアロワ
それではおかげさまで借りてまいりましょう
男1オー
ええ
2夕
女1オカゲサマデデアジナドーグーモドシテメアーリイタシターキョ一オテンキガヨクテコゴアニハヤクシミヤイタシター
おかげさまでたいせつな道具を返しにまいりました。今日は天気がよくてこのように早くしまいました。
男1オッカネノハヤクシミヤッター5
たいへん早くしまったね。
女1オカゲサヤデモミモカンゲァ一ヨリモシッカリオジャッテノー
おかげさまでもみも考えたよりもたくさんありましてね。
男1ヨノオジャッタノー
よかったですねえ。
女1オカゲサマデソイジャヤスミヤルタ一
おかげさまでそれでは、おやすみなさい.
男1オーソイジャーヤスミヤレー
ええ、それではおやすみなさい。
女1オー
はい
3道で
女1ンードケーソゴンオジャリヤロ一
おやどこへそうしておいでですか
男1ヤメーシボーカリ一イキイタソァアー
畑にまぐさを刈りに行きますよ
女1ゲンキデヨクオジャルノ._..
元気でいいですねえ。
男1オーオカゲサマデジョ一ブデオジャロワ一
ええ,おかげさまでじょうぶでいますよ。
女1タマニワアスビーオジャリヤレー
たまには遊びにいらっしゃい。
男1オーホイジャーコノモーリノアメフリンナラバアスッデイキイダソァンテヨ一イ
ええ。それではこの次の雨降りになったら遊びに行きますからね
女1オ一ソイジャノァオゲンキデガマンシヤロガーン
はい、それではねえお元気で精を出してください。
男1オー
ええ
中略
○まず、まるで能・狂言の世界だ。ゆっくりと格調が高いと感じる言葉だ。
“こんにちは”のあいさつに近い「オジャリヤロカーイ」(いらっしゃいますか)
“おはようございます”に近い「ヤスミヤロワカーイ」(よくおやすみでしたか)
で会話は始まる。
その返答は、どんな時も、まるでぶっきらぼーに「オ一」(はい)だ。
○ 聞いたこともないが何か古そうな言葉が出る。
“貸してください”「カシテタモアレ」
“やすやすと生まれました”「ヤスークヒンナシーテータラー」
〝死んでしまいました”「マルビーイタシタラ」
八丈島町教育委員会の解説では、音節のきれ目を、はっきりさせて、1つずつ区切って発音する傾向が目立つ。ぎくしゃくした音声印象はそのためである。アクセントは、型の区別のない「無アクセント」である。といった特徴をあげている。
b時代による重層言語
会話を聞いていて、われわれにはなじみの言葉が混じっている。逆にこの混在に違和感を覚えるほど、それらは際立っている。それは、「50エン」などの貨幣表現、と「オカゲサマデ」だ。きっとこれらは近代に標準語として入ってきた言葉に違いない。
また昼の弁当を用意するよう妻に言いつける言葉が、「ヒョ一ロ一シマツシトー」である。昼食は「ヒョ一ロ一」昼を「ヒョウラドキ」という。想像するに、島言葉は「アサゲ」「ユウゲ」しかなかった。彼らの元来は朝晩の二食生活であったことを示しているのだろう。鎌倉時代以降、島が武家支配に入ったとき、彼らが昼食の習慣をもちこみ、昼の弁当を「兵糧」と呼びそれが昼食の言葉となったのだろう。
さらにさかのぼって、秦の始皇帝の使い徐福の同行船が流れ着いて絹織物の技術をもたらしたという伝説がある。奄美大島にも大島紬という絹織物があるから、弥生時代に、相次いで、はるばるとした西からの海洋伝来なのかもしれない。黄八丈は北条が支配した時には、すでに島の産物であり、これに目をつけて献上させたのだから、北条時代より古い伝来である。蚕は「コナサマ」といい、ハルゴ、ナツゴ、アキゴの3回の養蚕ができた。蚕を古くは「コ」と呼んでいたことからきたものである。黄八丈は、古くはタンゴと呼ばれているが、北条の役人が京丹後の織物と同じとみてそう名づけたのかもしれない。
このように八丈島言葉は縄文語に、弥生・中世・江戸・現代と時代ごとに新しい語彙が重なっていったことがわかる。言語の重層は、日本語全体にいえることだが、重要なことは、その重なりがここでは、まるで断層として残って見えるという不思議な言語なのだ。