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三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち」(その4)

目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉



第2部日本語の起源:日本石器語の仮説

縄文語というからには、日本語の原型がどのように作られたのかを尋ねなければならない。古来このテーマは多くの学者が取り組んできたテーマだ。まず日本語という孤立言語は、江戸時代に来た外国人にも好奇心を招いた。ドイツ人の医師ケンプェルは、オランダ使節に同行して江戸にも来たが、彼は帰国後に書いた「日本誌」に、聖書のバベルの塔の物語で、分裂させられた一群がカスピ海を北上してシベリアから渡来して日本にもたらした言語であるとの説をたてた。

江戸末期から明治大正昭和と多くの言語学者は、あるいは、朝鮮から来たとか、ウラル・アルタイ語、特にツングース語に起源があるとか、あるいはオセアニア語(川本崇雄)やインドのタミル語が原型だなどという様々な学説を発表した。語彙・発音・文法を収集し比較して、つくられた学説である。


しかし不思議なことに、日本語は、縄文語として、この列島で生まれたという一番ありそうな説は、ずっと無かったのだ。
たとえば、タミル語説で有名な大野晋は、タミル語が食料文化とともに日本にもたらされ、日本語の文法や単語の基礎すなわち日本語の原型を形作ったと主張しているが、最近の著書では、そのタミル語とその文化が伝来したとき、「すでにそこには人間がいて言語を使っていた」と書き、消極的に先在の言語を認めている。がそれは先進的言語文化によって消え去ったという説である。


やっと
21世紀になって、日本には独自の縄文言語が先在して成立していたという説が小泉保氏や、前掲の金田氏によって出され始めた。私もそれが正しいとおもい、それはどのように生まれどのようなものだったかを推定したい。

a 日本列島に渡来した人間たち

201410月日本の最北端、稚内宗谷岬を訪ねた。13

岬といえば竜飛岬や、足摺岬など断崖で終わる風景を想像するが、宗谷岬は異様だった。海岸からなだらかな丘陵が続くのである。それは海岸付近ばかりでなく内陸20kmに入っても連続して、青々した牧草に覆われた牧場になっているのだ。この異様な地形は周氷河地形というのだと表示板があった。さてそれではどこに氷河があったのか、稚内教育委員会が主催している稚内北方記念館にその説明展示があった。

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すなわち数万年前のウルム氷河期の終り、氷河は地と海を覆い、ユーラシア大陸、樺太北海道は陸続きとなっていた。さらに2万年前には津軽海峡も消え、日本本土まで陸続きとなった。マンモスやナウマン象、大形の鹿を追って人類は北海道に入り、さらに日本列島に広がっていった。しかし縄文時代が始まるころは再び北海道は切り離された。このあたりの地理の変化を理解しておくことは、日本列島進出の人類種がやがて、アイヌ族、日本縄文族と分離して成長していったという考えを導くうえで重要なことである。


日本列島に渡来した人類種はすでに石器を手にしていた。狩りには欠かせない道具として持っていた。
1973年周氷河地の丘陵地の豊別に2万年まえのものである旧石器遺跡が発見されている。

恐竜は骨を残したが、人類は石器を残した。すべての人間の歴史遺産はやがて消え去るものだが、石器だけは消えず残った。日本列島に石器遺産が存在すると認識されたのは、1948年にアマチュア考古学者の相沢忠洋が群馬県岩宿で黒曜石槍先型尖頭石器を発見したことによるが、それ以降全国で競うように石器遺跡が発掘され、一種のブームを生んだほどだ。


その結果石器の形状や材料の全国分布がくわしくわかってきた。
石器といえば原始的の代名詞のように思ってしまうが、刃先を尖らせ磨きさえかけられた石器を見ると原始的などとは言えない。石の中の石「黒曜石」などは貴重だった。それはどこにでもあるものではなく、とれるところから遠くはるばるとはこばれてきたのだ。おびただしい数の黒曜石の細石片を見ていると、これは縄文時代の貨幣であったのではないかと見えてくる。石器時代は立派な文化なのだ。


それは流通していたのである。そしてその時代の人間の生活が見えてきた。原始時代と思われていたこの長い時代に石器は荒いものから細かいものへ、尖ったものや鋭い滑らかな刃を持つものへと進化した。また地方によって採れる石材にあった特産物石器も育った。驚くべきことに石器の量産工場までできていたことが発見された。相沢がいた群馬県岩
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宿にも近い赤城山麓の武井遺跡である。石材は各地から持ち込まれた。加工中の廃材も無数に発見された。ここで加工され各地に運ばれたことは確実である。

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縄文1万年と一口に言うが、石器時代は2万5000年の間継続したのである。この間縄文土器以上に各地で特徴のある石器が作られたという証拠が発見されている。次ページの図は岩宿博物館が作成された日本各地石器編年図である。石器とその材料は各地で交流していたことを考慮すると、長い石器時代に日本列島には相当優れたコミュニケーション言語が出来上がっていたと考えるほかないのである。

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by rijityoo | 2015-01-26 17:55 |  三水会 便り(5) | Comments(0)