2015年 01月 27日
三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち」(その5)
目次
はじめに
第1部、八丈島の島言葉
aまずこの不思議な言葉を聞いてください。
b 時代による重層言語
c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている
d方言系統の研究
第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説
a 日本列島に渡来した人間たち
b 日本石器語をもって日本列島縦断
c 縄文語とアイヌ語の分離
d 日本石器語から縄文標準語へ
e 縄文語に弥生時代の試練
第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか
a八丈島の縄文遺跡
b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。
c その後の遮断で保存された縄文語。
d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉
b、日本石器語をもって日本列島縦断
陸続きに大陸から北海道を通り日本列島に進出した人類種は、石器と石器語を持っていた。定住をはじめた3万5000年前ごろ使われた言葉を日本石器語と名付けておこう。大陸まで含めた交易圏と会話圏を推定すると、その言葉は単音で単純なものだった。むしろ複雑では通じなくなる。
それを推測することができるのが地名だ。地名は人々が言い出したときは意味があり、その意味が忘れられても地名だけは変化せず残るという世界共通の知見がある。今では現代日本語では意味が失われている不思議な地名こそ日本石器語の名残なのだ。そのような不思議な地名は日本の北部から始まり、九州南部さらに沖縄まで発見される。
石器を持った人類種は3万年の間にそこまで行きついていたのだ。1万5千年で南米大陸の南端まで到達した人類種のことを考えれば不思議なことではない。さてその日本石器語の地名だが、それを古アイヌ語で読もうと研究した人たちがいる。たとえば大友幸男氏だ。古アイヌ語は近代まで残った古いユーカラなどから推定できるとすれば、それは日本石器語を推定できる有力な方法だ。石器語からアイヌ語が分離していく直前か直後の言葉である可能性が強いからだ。彼は日本各地にのこる須賀(スカ)が、「砂浜」という意味だし、三内丸山遺跡のサンナイは「前に開けた沢」、野毛山や能登のノは「あご」の意で岬を指していると指摘した。彼の研究によれば古アイヌ語は5つの母音から成り立ち、語順は今の日本語とおなじであり、単音が意味を持っていた。
その一例を引用すると
ウ(おたがい)エー(あなた)ク(私)シ(自分の)ポ(子)
ヤ(陸)ワ(岸)ペ(水)サ(浜)ト(沼)(海)ピ(小石)
単音多義語は身振りを伴ってやっと通じるものだったろう。オノマトペといわれる自然の擬音がふんだんに取り入れられていた
c、石器語から縄文語とアイヌ語に分離
1万6千年前には海面が上がる海進で津軽海峡ができ、北海道は分断されて孤立した。それまでは同じ石器語を使っていた北海道人は、本土人とは文化も言葉も分離して、北海道の自然に合わせた生活文化を作り、近代アイヌ語を完成させていった。本土縄文語とは異なる言語になった。北海道の縄文相当時代の文化も本土とは違った展開を見せた。同じ周氷河地帯につながる天塩川川岸に日本の縄文遺跡に似た竪穴住居の集落川口遺跡が見つかっている。本土の竪穴住居は掘りが浅いし狭いが、ここの竪穴住居は階段をつけてはいるほど深いし中も広く一見立派だ。しかしこの遺跡は8世紀のもので、本土ではすでに奈良時代を迎えていて、大陸からの弥生文化で高床式の立派な宮殿もできていたころのものだ。
遅れているともいえるが、一方北海道の寒さ対策としては、高床式よりもこのような地面より1m近く深くて中で火が炊けるほど広い竪穴住居のほうが暖かだったのだろう。この時期、土器もむろん作られていたが、擦文土器と分類され本土とは違った独特のものである。
d、日本石器語から縄文標準語へ
北海道に残った部族に比べて、日本列島に進出定住した石器人たちは、照葉樹林の中で得られる固い種子を食料にするため、土器をおそらく世界に先駆けて作り出し素晴らしい縄文文化へと突入した。
縄文中期の前6千年ごろを地球規模で比較すれば、ユーラシア大陸の中央今のブルガリア地帯ではすでにトラキア人が黄金の豪華文化を築き上げていた。彼らは騎馬と甲冑をもって、近隣の部族を征服し、彼らを奴隷とし黄金で飾った壮大豪華な王の墓を残していた。しかし日本は縄文1万年の間、異民族との闘いや征服といったことは幸いにして経験せず、平和で穏やかな友好交流の社会が続いた。世界の辺境であったこその幸福であった。
そのような環境のもとに縄文語を発達させたのだ。縄文語は単音中心の石器語から出発して、徐々に複音化することで、一音多義のあいまいさをなくし、よりコミュニケーションに役立つ言語体系らしきものに成長させていったことであろう。細刀石器や縄文土器の制作能力で、現代人の及ばぬ能力を見せた人々が、言語の能力においても世界を驚かせるような縄文語を作ったと考えて何の不思議もない。ロジャー・パルバースは「驚くべき日本語」の中で、その柔軟性と発展性の高さは他のいかなる言語にもない特徴であり、『世界共通語』にふさわしいと述べている。
e、縄文語に弥生時代の試練
日本石器語を受け継ぎ発展した縄文語は、石器語がそうであったように日本列島の広範囲で同じ言葉、いうなれば縄文標準語が使われていたと推定できる。村々は小集団から成り立っていたが、交流は活発で、社会はオープンだった。狩猟採取の生活はその日暮らしで蓄積はなく、したがって争奪ということを知らない社会であった。それにふさわしい言語は、アクセントがフラットで、丁重で、ゆっくりと音節を区切って発音するといった特徴を持っていたと推定される。八丈島言葉のように、である。
やがて世界から隔離されていた平和の縄文社会に大陸からの船による渡来が始まり弥生時代に突入する。中国大陸ではすでに夏殷の時代であり武力による徹底した征服を繰り返すようになっていた。海を渡って日本列島にやってくる人類種は、それぞれのっぴきならぬ理由があった。石器時代人が獲物となるマンモスなどの大型動物をおって樺太からきたようにである。
弥生時代の船による渡来は朝鮮半島や中国からだが、まずは征服や戦火を逃れての避難部族であったろう。中には、おなじく敗退ではあったが、戦闘性は残し、捲土重来を誓ってあらたな拠点作りのために日本列島に上陸した集団もあった。弥生族でも特徴があったのだ。前者は平和友好を願い、後者はこの地で覇権を求めた。
渡来の先頭をきったのが平和友好派の出雲族であったことは幸いであった。彼らは先進文明を持っていたが、おそらく、もっと強力な戦闘部族に追い払われて、日本に逃亡してきた人々であったのかもしれない。彼らは神話にあるように国津神すなわち縄文人の娘をめとり、縄文語を学んでつかった。先住の縄文人たちに歓迎されて、彼らの聖地まで提供された。神社の形成はそのような経過で生まれたと推定できる証拠が日本のあちこちにある(2013年4月「縄文の祭り」で発表)。ともかくも彼らは平和のうちに融合した。
農作をもたらした弥生時代、その社会は基本的に変わった。農業は組織が必要である。階層がうまれた。蓄積のあるところと、少ないところも生まれたので、奪われる危険がうまれ、村々は閉鎖的になり、環濠で自衛した。そこに今度は戦いに勝利してきた天孫族が渡来してきた。彼らはやがて日本の支配者となる。
次々に波状的に渡来した弥生族は、農耕文化と、社会の組織化、支配術、さらには金属による武装や戦争技術をもたらした。それらの先進技術とともに、先進的なテクニカルターム(特殊な単語群)をもちこんだ。大野晋氏ら多くの言語学者が、その分析をして多くの学説を立てているのはこの弥生時代以降のことだ。
言語にも深刻な影響が出た。共通であるよりも仲間同士であることがはっきりしたほうがよかった。方言が生まれてきたのである。方言化は自衛のためにも促進されたのである。中央政府が生まれると、さらにそれは促進した。支配の強化のために、中央政府のある地方の言葉が標準語となり、地方語は卑しめられるという、言語の序列が生まれた。地方の人々の反抗心も育てた。自分たちの方言が自らのアイデンティティとなり、方言化を促進した。
しかし日本語の成立にとって重要なことは、その先進渡来人たちも、土着の縄文語を放逐できなかったことだ。もし放逐されていれば日本語は朝鮮語か、中国語の親戚言語になっていたはずだ。実際にはそれは起きなかった。縄文語はテクニカルタームをどんどん吸収していったが、基本は変わらなかったのである。縄文語が、パルバース氏がいうように極めて柔軟で、外国語を飲み込んでしまう性格であったからだろう。それなりに成熟していた縄文社会の人口は大きく、いつも先進渡来人は少数派で、彼らを征服するような規模ではなかったからでもあろう。