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三水会だより「縄文語の名残を話していた人たち(その7)

目次

はじめに

第1部、八丈島の島言葉

aまずこの不思議な言葉を聞いてください。

b 時代による重層言語

c八丈島島言葉は縄文語の名残を伝えている

d方言系統の研究


第2部、日本語の起源:日本石器語の仮説

a 日本列島に渡来した人間たち

b 日本石器語をもって日本列島縦断

c 縄文語とアイヌ語の分離

d 日本石器語から縄文標準語へ

e 縄文語に弥生時代の試練


第3部八丈島になぜ縄文人が渡来したのか

a八丈島の縄文遺跡

b 縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

c その後の遮断で保存された縄文語。

d 昭和に入って破壊され、絶滅危惧言語となった島言葉



b、縄文人が部落総出でこの島に渡った理由はなにか。

では縄文前期、ある集団が社会的規模で八丈島に来たのはどの集団でどの時期なのか。神奈川、相模丘陵から大磯平塚付近にいた縄文人たちと推定する。理由は二つある。一つは言語学者の報告にあるように八丈島島言葉の語彙は南関東沿岸のものに近いからだ。


第2に、彼らの前に広がる相模湾に浮かぶ大島はいつも見慣れたものだし、天気が良ければその先の伊豆七島が目視出来た。石器時代から神津島の黒曜石、装飾用の大型貝の産出で交流が盛んだった。隣村くらいの感覚だった。
次に決行した時期であるが、それは、新富士の噴火と相模湾大地震のあった紀元前6000年のころと推定する。遺跡発掘の遺物もその時代とみなされた。


古富士は約
10万年前に大噴火し、広範囲の関東ローム層を形成したが、その後いったん収まり、15000年前から新富士の形ができ、またしばらく静かになって、今度は新富士の激しい噴火活動が5000年前ころから始まる。それと連動した相模湾地震は相模湾の海岸線にあった中村湾を埋めてしまうほどの激しさだった。相次ぐ噴火と地震は、森も海岸も変えてしまい、狩猟採取の生活を決定的に脅かしたに違いない。逃げ場を求めて内陸に向こうとすれば、浅間、赤城、榛名などの噴火で彼らの祖先が苦しんだ伝承もあったであろう。新天地を海の向こうに求めたのである。


そのころは縄文海進が最も進んだ時で、相模丘陵まで海が迫っていた。巨木森林のそばまで海岸が来ていたので、丸木舟を制作進水されるのも容易だった。写真は前掲の樋口氏の本から借用したもので、千葉で出土した縄文中期の丸木舟。長さ
7.5m70cm木はムクノキだ。10名は十分に乗れる。


新富士の噴火と相模湾地震で、相模丘陵付近の縄文人村落はまず、大島や伊豆七島に逃げたが、そこには定住者もいたし、島の人口許容量もそう多くない。そこまでいけば、その先が次々と見えてくる。八丈島は三宅島からもかすかに見える。次に向かう目標となりえた。

 
縄文海進の時代、海の水の量が増えていたので、海水の塩分が今の
3%より低かった可能性がある。2.5%なら飲める範囲になる。魚は豊富に捕れる。丸木舟であっても、気候と天気を見て渡海すれば、御蔵島と八丈の間に流れる黒潮も乗り越えられた。このようなある意味でのっぴきならぬ事情と、行き着くために自然が支援してくれた事情で、集団的社会的移住がこの時期だけ可能となったのだ。

 
6000年前八丈島に上陸した縄文人たちは、部落をあげての大渡海移住の決断を相談して決めたのであるから、それにふさわしい成熟した縄文日本語で話し合っていた。今八丈島言葉としてかろうじて残っている言葉だった。

 
同じような状況が九州南部でも起きていた。鹿児島は石器時代縄文初期からの遺跡がたくさん出る。縄文文化はこの地から始まったと見る学者もいるくらいだ。人口も多かった。この場所が歴史上の記録となるほどの大噴火にあっている。姶良大噴火2万5千年前、桜島2万年前このプレッシャーは石器人たちを、さしずめ屋久島・種子島などに追いやった。さら鬼界島の大噴火が富士噴火と同じ時期の紀元前
6500年に起きた。琉球諸島に大量の移住が発生したのもこの時期だろう。同じ縄文標準語を携えて。


c、その後の遮断で保存された縄文語。

 縄文海進は終わり、再び海は遠くなった。富士の噴火もおさまった。縄文後期から弥生時代に、社会は豊かになったので、あえて危険の多い海洋進出の冒険の必要もなくなった。弥生時代は農耕が始まったために人は定着していなければならないから、さらに渡海して移住するという人たちはいなくなった。八丈島はこのような事情で自然に隔離されたのである。


その後この島を訪れる人は漂流民か、ある目的を持った人たちといった少数の人たちに限られた。たとえば伝説の徐福一行の一つの船が流れてきたのかもしれない。徐福は長命の薬を求めてきた。この島で常生する明日葉がその薬になったとも島の伝説は語る。徐福でなくとも、その時代に養蚕を伝えた人がやってきたことは間違いない。奄美大島の大島紬は、黄八丈と並ぶ絹の名品だ。


鎌倉時代以降やってきたのは、ここを支配して絹を上納させるための北条など武家領主の役人であり、ついで江戸幕府の代官と流人である。彼らはいつも異文化と異言語をもたらしたが、島人に比較していつも少数だったので、彼らが話す言葉が島言葉にとって替わるようなことはなく、一部専門語として必要な新単語は受け入れられた。養蚕の述語コナサマや兵糧、貨幣、新しい挨拶「おかげさまで」などである。それらはいつも、ある敬意を持って受け入れられ、柔軟に吸収されていった。縄文語の基本を乱すほどのことはなかった。


これがこの島に縄文語が
6000年に亘って残りえた可能仮説である。


by rijityoo | 2015-01-28 11:30 |  三水会 便り(5) | Comments(0)