2016年 01月 29日
三水会便り「20世紀を変えたバルト3国の再独立」その2
Ⅱ 杉原千畝の功績と日本外交の問題点
1ユダヤ人救出で果たした役割
2外交官杉原千畝が活躍した時代
(1)杉原千畝の外交官としての任地
(2)杉原千畝の特質すべき功績
3外務省の杉原追放とその後の名誉回復
4日本外交の問題点と外交の在り方
Ⅱ 杉原千畝の功績と日本外交の問題点
1 ユダヤ人救出で果たした役割
杉原千畝は国際的に最も知られた日本の外交官である。最近映画にもなったので更に広く、深く知られるようになった。「私は外交官である前に一人の人間である」と云って、ナチスドイツに追われたユダヤ人に本省の意に反して日本の通過ビザを発給したのである。
「6千人もの命を救った外交官杉原千畝の行いは、どんなに賞賛しても賞賛しすぎることはない。彼に命を救われた人々は、子、孫、ひ孫まで合わせると優に20万人を越えると云われている。20万にもの人々、その多くが日本に対し好意のまなざしを向けていることを勘案すれば、現代に生きるわれわれは、杉原の遺産の恩恵を享受しているのである。」
『戦争と諜報活動-杉原千畝たちの時代』白石仁章著 角川選書より
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人間外交官杉原千畝の功績はこれに尽きていると思うが、その生き方を通じて外交官として追考してきたことの全体を辿ってみることにする。
2 外交官杉原千畝が活躍した時代
(1)杉原千畝の外交官としての任地
杉原千畝は1900年に生まれ、1919年外務省の官費留学生として日露協会学校(後のハルピン学院)に留学、卒業後在ハルピン総領事館に配属された。ロシア語の他、英語、ドイツ語、フランス語、中国語に堪能で、これらの国の情報収集に当たった。その後希望しての新京の満州国外交部へ移って建国直後の満州国の外交を担当した。しかし満州を属国扱いにする関東軍の横暴を憤り、本省へ戻った。
次に任地としてモスクワの在ソ連大使館勤務が決まったが、ソ連側に忌避されて果たせなかった。以後もソ連へ入国することを禁じられたので、敗戦後ハンガリーで抑留され、シベリアから帰国するまでこの地を踏むことはなかった。何故ソ連側に忌避されたのかは交渉で北満鉄道の売却を安値で叩いて、ソ連が挙げようとした利益を減少させたことと、諜報活動にソ連側がマークしていた白系ロシア人を活用し、引き渡し要求に応じなかったこと、そしてこのような有能な外交官が日本大使館にいたのでは困るといったことが関係していたといわれる。こういうことが外交用語で云う「ペルソナ・ノン・グラータ」(好ましからざる人間)として忌避したのである。
この後の任地は満州の新京からフィンランドのヘルシンキ、リトアニアのカウナス、ドイツのベルリン、チェコのプラハ、ドイツのケーニヒスベルク、ルーマニアのブタペストで、それぞれの国で重要な任務を果たした。特にカウナスでは一家以外に日本人が居ないなかでリストニア領事館を設立し、後にユダヤ人へのビザ発給に力を尽くしたのである。
(2)杉原千畝の特筆すべき功績
外交官の任務の中で重要なのはインテリジェンス活動と呼ばれるものである。諜報活動とも云われ、スパイ活動をイメージされることもある。また同じスパイ活動でも公然のものと非公然のものがある。諜報活動に優れた国は以前はソ連であり、その後を引き継いだロシアである。プーチン大統領自身がKGB出身であり、対外諜報官として東ドイツに駐在していたことがあり、ドイツ語が堪能である。最近在日ロシア大使館の軍人外交官が陸上自衛隊の元東部方面総監から陸上自衛隊の重要資料を手に入れたとして、自衛隊法違反の容疑で書類送検されたが、東京地検は両者とも起訴猶予にした。「諸般の事情を考慮して」という説明は、暗に今後行われる安倍、プーチン首脳会談への考慮を示唆している。
杉原千畝は優れた外国語の能力を活かして情報収集や諜報活動に従事し、多くの功績を挙げたようである。残念ながら仕事の性格から明らかにされていることは多くない。また空襲で外務省に保存されていた資料が焼失して仕舞している。しかし杉原が関わった仕事は記録に残っているだけでも、当時の日本にとって極めて重要な内容のものである。ここでは代表的なものを2つ挙げる。
第1は満州国外交部勤務の時に担当した満鉄による北満鉄道買収交渉である。ソ連が経営していた満鉄に繋がる北満鉄道を日本側に譲渡してもいいと云ってきたので、日本は満州国外交部に交渉させた。交渉を担当したのが杉原で、ソ連側の言い値の6億2,500万円を最終的に1億4,000万円と、約5分の1まで下げさせて買収した。ソ連側が隠していた鉄道の老朽化や、買収を持ちかける一方で車両をソ連国内へ移していることなど、極秘の情報を次々に暴かれて狼狽したことが要因とされている。こうした情報はソ連政府に追われた白系ロシア人を組織して得たものである。情報収集に協力した白系ロシア人には危険な仕事であったが、杉原は命がけでこの人達を守って信頼を得た。
第2は1941年にドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連領に進駐する動きを、ケーニシスベルグ領事館で1ヶ月前に察知して外務省とベルリンの大使館へ連絡した。この時松岡洋右外相は日独伊3国同盟を結成する一方で日ソ中立条約を結んで、米英両国との戦争に備えようとしていた。杉原はヒットラーの狂気とソ連の日本への対応に疑問をもち、暗にこれらの対応を見直すよう進言していたのである。しかし外務省も在ドイツ大使館も杉原からの連絡を無視した。以後ドイツはソ連に攻め込み、ソ連は不可侵条約を破棄して満州、朝鮮、樺太に侵攻して、日本は敗戦に追い込まれた。
3 外務省の杉原追放とその後の名誉回復
1947年6月、杉原はソ連での抑留生活を終えて帰国した。それを待ち受けていたのは非情な辞職勧告であった。外務省に呼び出されて岡崎勝男事務次官(後に外務大臣を3度歴任)からリトアニア領事館時代の訓令違反が省内で問題になっているとして辞職するよう云われた。収入を閉ざされた杉原は翻訳や貿易会社のモスクワ駐在員などで生活しなければならなかった。外務省では杉原はビザと引き替えにユダヤから金を貰っていたようだから、経済的に困らないはずだとの根も葉もない噂が流れていたという。杉原に助けられたユダヤ人と子孫が問い合わせても、外務省は一切取り合わなかった。1969年にイスラエルから招待されて杉原はテリアビブへ行ったが、現地の日本大使館は無視したという。
その後リトアが再独立を果たしたので日本は改めて大使館を開設することになり、この問題を国会で追及されて、外務省は杉原の辞職を撤回し形だけの名誉回復を図った。杉原の生誕100年に当たる1991年に河野洋平外務大臣が幸子夫人を招いて正式に謝罪した。同時に顕彰の意志を形に残すことにして赤坂の外務省資料館に<杉原千畝顕彰プレート>を設置するとともに、その業績に関する関連資料を1階ロビーに常設展示することにし、見学者が絶えない。
4 日本外交の問題点と外交官の在り方
日本の外交は相手国がどこでも通り一遍の方法で臨み、相手の言い分の間違っている点を
臆することなく指摘する<論議外交>に弱いと云われる。外交は外国相手の交渉だからただ「ご理解戴きたい」では済まない。こういう姿勢は従属化にあったアメリカとの交渉で、長年の間に身についたものであろう。それが対中、対ソ、対北朝鮮外交に表れている。交渉であるから<情緒的>でなく、<具体的内容>でやり合わなければならない。外交交渉で日本側の印象が薄いのはそういうことではないだろうか。
トップ外交の在り方にも問題が残る。安倍首相がインドのモディ首相と会談して「日印原子力協定」を締結することで意見の一致をみたとの報道がなされた。インドは核保有国でありながら、NPT(核拡散防止条約)に加盟していない。こういう国と原発の売り込みを目的にして原子力協定を締結していいのかは疑問である。
外交官の成り立ちにも問題を感じる。最も難しいと云われた外交官試験が公務員採用総合職試験に一元化されたのは一歩前進だが、依然問題が残っている。この他の試験は外務専門職採用試験と公務員一般職員採用試験であるが、いわゆるノンキャリアー向けのものである。一般職員採用試験合格者は会計、通信、文書管理、秘書などの補助的仕事につく。他に外務省在外公館専門調査員という制度があり、2年任期で派遣先国や地域の政治、経済、文化等に関する調査研究及び館務の補佐を行うとされる。これを見る限り本省の幹部や大使館、領事館の大使、公使、領事などになれるのは、原則として総合職試験に合格したキャリアーに限られてしまう。戦前は杉原千畝のようなハルピン学院出身者や上海の東亜同文書院出身の外交官が責任ある立場を任せられる余地があった。日本外交の問題を考えるに当たっては外交官の養成方法も検討する必要がある。