2016年 01月 29日
三水会便り「20世紀を変えたバルト3国の再独立」その1
講演者 岡本 好廣氏
岡本好廣氏プロフィール
早大卒・学生時代から生協運動に従事、
日本生活協同組合連合会常務理事、
(財)生協総合研究所専務理事を歴任し、
現在、協同組合懇話会常務委員、
ロバアト・オウエン協会理事
<目 次>
はじめに
Ⅰ バルト3国の概況と歴史的経過
1バルト3国の民族と地理的環境
2大国に翻弄し続けられた3国
3「人間の鎖」による3国の再独立
4バルト3国を巡って感じたこと
はじめに
スターリンが唱えた「一国社会主義革命」の下にソ連への隷属を強いてきた体制は1985年以降弱体化し、社会主義陣営内でソ連共産党指導部への批判と造反になって現れた。そのきっかけはゴルバチョフの「グラスノースチィ」(情報公開)と「ぺレストロイカ」(立て直し、再編)であった。これに対してエリツィンの共産党解体論が力を増し、1989年に入ると東ヨーロッパで次々に社会主義政権が崩壊した。
しかしこれらの国々はソ連の衛星国ではあってソ連そのものではなかった。その点1940年に占領されて、ソ連の属州扱いされてきたバルト3国が1989年に200万人が参加したと云われる「人間の鎖」の示威行動で独立した意義は大きい。民衆の力で70年ぶりに果たした再独立であり、国際世論の支持のもとソ連崩壊にとどめを刺した。タイトルを「20世紀を変えたバルト3国の再独立」としたのはそのためである。民族も言葉も違う人々が600㎞に渡り手を繋いで「人間の鎖」という「静かな革命」を成し遂げたのである。実際に3国を訪ねてみたいと思い、昨年5月に10日間の旅をした。見てきたことを含めて「バルト3国の再独立」について考えてみたい。
Ⅰ バルト3国の概況と歴史的経過
1 バルト3国の民族と地理的環境
狭義のバルトはエストニア、ラトビア、リトアニアの3国を指し、広義にはこの3国にバルト海を隔てたフインランド、スウェーデンに陸続きのロシア、ベラルーシ、ポーランドを加えたものを云う。ロシアは地続きの国土の他、リトアニアが独立した結果飛び地になった領土カリーニングラード(旧ドイツ領ケーニヒスベルク)があって、地勢的関係が複雑である。バルト3国の面積は175.000㎢、人口675万人の小国である。エストニアはフインランドと同じウラル=アルタイ語族に属し、ラトビアとリトアニアはインド=ヨーロッパ語族でお互いに言葉は通じず、ソ連占領下ではロシア語を共通語にしていた。バルト3国は中世にはドイツ騎士団の植民活動でドイツ人の侵出が続いて、ハンザ同盟の都市が築かれ、北方やロシアの物資の集散地になってきた。
3国は地理的環境から西方のゲルマン人、北方のスラブ人の圧力を受け続けてきた。スウェーデンの侵略に曝された時期もある。リトアニアはポーランドに同化した時期もあった。その後帝政ロシアの支配が続きロシア化が進められた。しかしロシアに支配され続けられながらも3国の意識はバルト海を挟んだ西側にあった。ハンザ同盟の基地として海運や通商、そして製薬等工業化の道を辿ってきた。いずれも教育に熱心で、3国には歴史の古い有名な大學が存在している。北の窓口とも云えるフィンランドを、3国ともロシア帝国とソ連に圧迫されてきた立場で共感をもって接している。実際にヘルシンキはエストニアの首都タリンをフエリーで結ぶバルト3国の玄関口の役割を果たして、毎日大勢の人々が行き来している。
2 大国に翻弄し続けられた3国
ロシアによるバルト海地域の支配は1720年頃から始まり、これがロシア帝国台頭の時期と機を一にしている。バルト地域は伝統的にバルト・ドイツ人と呼ばれるドイツ人貴族が勢力を持っていた。この時期帝政ロシアはバルト・ドイツ人に地方行政を任せ、後半期は中央集権体制に移行しロシア化を進めたが、引き続き彼らが行政を担った。ロシアにとって西方に侵出して西欧への窓口をもつことは長年の希望であった。それを実現したのはピヨートル大帝であった。そしてバルトに近い湿地帯に難工事を押してサンクト・ペテルブルグを建設して首都にした。17世紀末にスウェーデンがバルト地方に勢力を伸ばしたが、18世紀に入ってロシア帝国が撃退し、東西に跨がる大帝国を形成したのである。それにも関わらず18世紀から19世紀の前半にかけてロシア帝国はバルト地方を手に入れながらもゆるやかなロシア化政策をとっていた。だが、19世紀後半に登場したアレクサンドル3世はロシア化政策で望んだ。
ロシアの対外貿易の拠点にされたバルト海東岸の主要な街はロシア経済に完全に組み込まれると同時に、地方では土地なし農民が急増し、都市では新しく労働者階級が生まれた。同時にロシア本国では帝国運営に綻びが生じ、日露戦争での劣勢と国内での相次ぐ労働者と兵士の反乱によってロシア帝国は急速に力を失っていった。こうしたなかで1917年にロシア革命が成功し、レーニンの革命政権が民族自決権を保証したこともあって、急速に独立の機運が高まった。3国は相継いでロシアと平和条約を締結し、翌1921年には国際連盟に加盟し、独立国としての憲法を制定した。さらに1926年から32年までの間に3国それぞれにソ連との間に不可侵条約を締結し、これによって長い間苦しめられてきたロシア、ソ連との間に平和な関係が築かれるかと思われた。しかしレーニンの死後政権を握ったスターリンは「一国社会主義革命」を掲げて民族自決権を否定、ソ連邦に結集しその体制を守ることが使命だとした。
1939年にヒトラーとスターリンの間で独ソ不可侵条約が締結され、付随する秘密議定書にドイツとソ連によるポーランド分割と、バルト3国のソ連併合を認める条項があった。この年の9月にドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まった。ソ連は東部からポーランドに侵攻し、翌1940年にはバルト3国を占領して8月には併合を強行した。ソ連はバルト3国は各国の意向によらずにソ連との間に相互援助条約を締結させて軍隊を駐留させ、ソ連邦に組み入れることについての応諾を迫った。これは3国の意志に関係なく独ソ不可侵条約の秘密協定によって実行された。直前にフインランドがソ連の侵攻によって第一次フィン・ソ戦争を戦い、湖沼と森林の多さを武器にゲリラ戦で勇敢に戦ったが、国力の違いは如何ともしがたく、敗北に追い込まれたのを目の辺りにしていた。1940年3国は相次いでソ連の最後通牒を受け入れてソ連邦に帰属させられた。日本による朝鮮併合と同じである。
同時にエストニアとラトビアの大統領はソ連に連行された。リトアニアの大統領は危うく難を逃れてアメリカへ亡命し、ここで亡くなった。こうしたソ連の暴挙はフインランドへの侵攻とともに国際連盟で取り上げられて非難されたが、ソ連は無視し既成事実になってしまった。ソ連軍による占領が進むと同時に3国の政府関係者、知識人、文化人、聖職者などを中心に多くの人々が追放され、シベリアへ送られた。その数は3国合わせて4万8千人と云われている。こうした追放はその後も続けられると同時に集団化農場が作られ、多くの農民が送り込まれた。
1940年代に入ると各地でソ連の占領に対する抵抗運動が起こり、その度毎に弾圧された。この間ドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連へ侵攻し、独ソ戦争が行われたのでバルト3国はソ連領からドイツ領へ、またソ連領へと目まぐるしく代わり、その度に国土が荒らされた。1950年代からはソ連の支持で政権を担った各国の共産党内部で改革の動きが弾圧され、血の粛正が相次いで起きた。しかし社会の底辺で静かに進んでいた抵抗運動が1988年になると3国で一斉に「人民戦線戦」の結成という形で実を結んだ、それを背景に1989の「人間の鎖」による独立運動が開花したのである。
3「人間の鎖」による3国の再独立
ソ連のグラスノスチによってバルト3国のソ連併合を決めた「独ソ不可侵条約秘密議定 書」が明らかになった。それに基づいて併合が行われて50年目に当たる1989年に「人間の鎖」で3国の国境を越えて600㎞に及ぶ道を200万人もの人々が手を結び、ソ連邦からの離脱と独立を訴えたのであった。600㎞と云えば東京から神戸までの距離に相当する。その長い道を1人1人が手を繋いで鎖にしたのである。ソ連政府は独ソ秘密議定書の存在は認めたが、3国は自主的にソ連邦に加わったという立場を変えていない。このデモンストレーションを3国の共産党政権は中止させず、何とか穏便に終わらせようとした。リトアニアの独立運動組織サユディスは集会の数日前に「ソビエト連邦の政治的、文化的、行政的支配を受けない」として、独立のリトアニア国家を目指すことを議決した。
こうして周到に準備された運動は1989年8月23日午後7時から混乱なく実行された。これを契機に3国では様々な形で独立を訴える行動が行われるようになった。リトアニアの首都ヴリニュスでは大聖堂前で数千人の人々がローソクを持って国歌や民族の歌を唱う集会を開いた。他の場所では神父がミサを行い、教会の鐘を鳴らした。エストニアとラトビアの国民戦線は国境で集会を開き、巨大な黒い十字架に火をつけてソ連の支配と決別する象徴的な葬儀を挙行した。こうした動きを初めは静観していたソ連政府は次第に強まる3国の独立の動きに危機感を募らせ、1991年に入るとラトビア、リトアニアに対して軍隊を投入して攻撃を始めた。
こうしたなか3国では相継いで「独立の是非を問う国民投票」を実施し、いずれも圧倒的多数で独立の意志を確認した。ソ連政府に対する国際世論も次第に厳しさを加えた。この間モスクワでは保守派が起こしたクーデターが失敗し、共産党政権が崩壊した。3国は相継いで独立を宣言し、ソ連も独立を正式に承認した。こうしてバルト3国は半世紀ぶりに独立を回復した。この後の3国の動きは速く、独立10日後に国連加盟を実行すると同時にEUへの加盟申請を行った。
続いて1994年にはNATOとの間で「平和のためのパートナーシップ協定」を締結、1993年までに3国からロシア軍の撤退が完了した。次いで1995年にはEUとの準協定(欧州協定)に調印した。1995年は相継いで金融危機を迎えたが、これを短期間で克服した。そして2004年にはNATO、EUの2つの国際機関への加盟が実現し、晴れて西側の一員となった。民族や言葉が違う3国が完全に歩調を合わせて再独立を成功させたのは、長い歴史を通じて3国が争うことがなかったからである。通常国境を接している国は摩擦が多く、往々にしてそれが戦争になることがある。しかし3国の間にそういうことは起こらなかった。リトアニアとポーランドの間では争いがあって領土を奪い合うこともあったが、3国の間は平穏であった。
3国とも古くから教育に力を入れ、理性的に行動することが身についていたように感じられる。文化面では音楽を通じて3国の絆が強められてきたことが挙げられる。大規模な合唱祭は世界的に有名である。1988年にはタリン郊外の野外音楽堂に25万人という空前の大観衆が集まって歌の祭典を開いた。ここでは非公式の国歌と云われる「わが故郷はわが愛」が歌われた。ラトビアやリトアニアからも人々が集まり、これが翌年の「人間の鎖」を成功させる原動力に繋がったのである。合唱は人々の心を一つにし、団結の絆になる。バルト3国の人々は合唱を通じて心を通わせ、内に秘めた独立の願いを強くする。「歌とともに闘う革命」と呼ばれる所以である。
4 バルト3国を回って感じたこと
帝政ロシア末期の1904年、バルチック艦隊は属領としていたラトビアのリガ近くの軍港から日本に向かった。日本の連合艦隊と戦うためである。バルチック艦隊は7ヶ月の長い航海の後日本海会戦で壊滅し、その後革命によって帝政ロシアは消滅した。この頃フインランドとバルト3国は自分たちを脅かしている帝政ロシアに反対して蔭ながら、日本を応援していたようである。そういうことがあって今でもバルト3国は日本に好意的である。
エストニアは大相撲の把瑠都の出身国として親しみをもっており、ラトビアは日本文学の人気が高く、日本語教育が盛んである。ラトビアで開催されている日本語弁論大会は既に10回を超えているという。リトアニアは日本の領事代理として多くのユダヤ人を救ったことを知らない国民はなく、日本への敬愛の念が強い。外務省は広報に「バルト3国と日本」というページを設けて、バルト3国を紹介している。それからも3国の親日の情の深さが汲み取れる。
実際に訪れて実感じたのはバルト3国は時間的にも日本に近い国だということである。距離的には遠いが、交通の便がいいので近く感じる。成田空港とフインランドのヘルシンキの間にフインランド航空の直行便が出ていて9時間半で到着する。日本からヨーロッパへ行くにはこれが最も早い。今では日本航空も共同シエア便を出していて便利である。ヘルシンキ行きは関西空港からも出ている。ヘルシンキからはタリン行きのヘリーが数多くある。2時間あまりで着くので7時間の時差があり、その日の内にエストニアへ入ることができる。
3国併せた距離が南北約650㎞、隣の国へ飛行機で行くには突っ切って仕舞いそうである。鉄道も発達していてロシアのサンクトペテルブルグへ行く国際列車も出ているが、便利なのはバスである。今回は「人間の鎖」の跡を偲ぶということで全行程をバスで移動した。3国ともEU加盟国なのでヘルシンキで入国手続きを済ますと出国まで一切手続きは不要である。通貨も昨年リトアニアを最後に3国ともユーロに切り替わったので両替の煩雑さがない。旅行者にとっては3国がまるで一つの国のようで違和感がない。
次に感じたのはどの街も綺麗だということである。3国の首都タリン、リガ、ヴエルニスは揃ってユネスコの文化遺産に登録されていて、派手な看板が一切なく街の清潔さが際立っている。いずれも中世の建物が残っていて、丘からの眺望が素晴らしい。ヨーロッパでもこれだけ美しい街並みが揃っているところは珍しいように思う。
3国とも山らしい山がなく、どこまで行っても平地である。それでもエストニアは幹線道路のそばは林が続き、ラトビアでは左右の平地がどこまでも広がっており、リトアニアでは遠くに海が見えるなど、平地と云っても少しづつ違っている。共通しているのは周囲に人家が少ないことで、街らしい街は数えるくらいしか目にしなかった。この道路で多くの人が手を繋いで独立を訴えたのだと思うと胸を打つものがあった。どこまでも真っ直ぐな道なので、見える範囲でも万を数える人々が列を作ったのであろう。バスを降りて道路の端に立つとその思いが一層強くなった。
3国とも科学技術に優れ、ITや製薬の面で立派な実績を上げており、中世から有名な大学があって学術、文化の水準が高い。特に音楽では大規模な合唱祭が世界的に有名である。合唱祭のために3国の人々は頻繁に行き来しており、「人間の鎖」を成功させたのも、こうした日頃の往来があってのこと思った。昨年NHK交響楽団の首席指揮者に現在最も活躍が期待されているエストニアのパーボ・ヤルビーが就任し、大晦日の第九の指揮をした。また新年恒例のウインフイル・ニューイヤーコンサートには世界的指揮者であるラトビアのマリス・ヤンソンスが登場した。小国がこのような優れた指揮者を続いて送り出すのは珍しいことである。芸術的に優れているバルト3国の一面をうかがわせるものである。
人々は皆シャイである。タリン、リガ、ビリニュスといつた首都でもヨーロッパの田舎に居るような気持ちにさせ、それが魅力である。再独立後3国は自国語で立法、司法、行政を行えるようにする「言語法」を制定し、学校では自国語による教育を強化している。
外務省のホームページも指摘しているように3国の対日感情はいい。リトアニアでは杉原千畝が中学の教科書に出ており、領事館があったカルナスではリトアニア人が買い取って記念館にしており、近くの通りは「スギハラ・ロード」と名付けられ、駅にも標識が出ている。また首都ビリニュスの中心部にも杉原を記念するプレートが設置されている。
最近どの国に行っても多く見かける中国や韓国の旅行客は3国では目にしない。日本からの観光客も北欧や旧東欧諸国へ行く人たちに比べると遙かに少ない。観光客は年配の旅慣れた人たちが中心である。われわれのグループも総勢23人と少なかったが、これまでにいろいろな国を回って行くところがなくなったので来たという人が目立った。しかし3国揃ってこのようないい国は珍しいという感想であった。観光目的でいいから若い人にもっと行って欲しい。同時にバルト三国の歴史も知って欲しいと思った次第である。