2017年 12月 01日
学園はなの村創立20年にあたって 「はなのむら」編集者伊藤公博さんの言葉
平成22年の耕作放棄地は39.6万ha(10.6%)と言われています。学園はなの村は「都市と農村が力を合わせ農地の荒廃を防ごうという菊川市古谷の故宮城正雄翁(元古谷報徳社社長)の小田原の報徳博物館での呼びかけ」から始まいまりました。その後の足取りは「学園はなのむら」編集人伊藤さんの創立20周年にあたっての記事をご紹介しますのでご高覧ください。
学園はなの村
創立二十年の足取り
月並みな感想ですが、早いもので一九九八年五月、静岡県掛川に7町歩の実験農業地を持つ研究会「学園はなの村」を設立して二十年が経ちました。この間「有機農業」・「相互扶助」・「自助努力」を合言葉にひたすら環境に優しい農業に汗を流してきました。その出発点は都市と農村が力を合わせ農地の荒廃を防ごうという菊川市古谷の故宮城正雄翁(元古谷報徳社社長)の小田原の報徳博物館での呼びかけでした。来年五月の二十周年を前に、掛川に蒔かれた一粒の麦のこれまでの成長過程を追ってみます。
学園はなの村と光陽の里
「みんなでやろう小さい農業」
宮城さんの講演に心打たれたゼミの仲間で勉強会が始まりました。「村研究会」です。ここに宮城さんの懇望をうけて遠く愛媛から津野幸人先生が来られて、指導に当たられました。先生は小農論で著名な元鳥取大学農学部長、先生の提案は、農業は実践である。二十町歩の実験農地を確保し一人一反の有機農業を実践する。それに農業倫理の基本である自助努力と相互扶助が合言葉となりました。会の初代事務局長松井さんたちの働きで光陽に7町歩の畑が利用できるようになりました。仲間募集の呼びかけも大変でしたが、皆希望に燃えて慣れぬ作業に打ち込みました。津野先生は遠路愛媛から度々来掛、指導に当たられました。
この経緯と熱気溢れる活動状況は《みんなでやろう小さい農業 学園はなの村・光陽の里編》という冊子になっています。また《みんなでやろう小さい農業》の索引で科学映像館ファイルの動画を見ることができます。http://www.kagakueizo.org/create/other/219/)
農住接近の地を求めて 倉馬の里
実顯農地が確保できてすぐ浮上したのが遠隔地から参加する人の住居の問題でした。これは経費だけでなく農地法の観点からも難問でした。家研究会が組織され、倉真と初馬にまたがる篠竹に覆われた棚田の跡地が候補に挙がりました。今は伝説の宮城さんの奮闘、家研究会員の努力で倉真と初馬の境に家と畑の隣接した1町歩ほどの場所ができました。畑候補地には篠竹の根を腐らすために、きのこセンターからもらってきたおがくずを敷き詰めました。「倉真」と「初馬」から一字ずつとって、ここを「倉馬の里」と名つけました。しかし都会からの利用希望者は集まらず、当初予定したクラインガルテン構想は課題として残りました。
里山倶楽部の活躍
月の半分を倉間の里で暮らす事務局長藤本さんに倉間の里の活用を頼まれた地元の溝口さんの呼び掛けで24年6月、25名でスタートしたのが「里山倶楽部」、今では40名ほどの会員がわらび、しいたけ、そば、ごま、えごま、たけのこなど季節の山の幸をアイデアを持ち寄り、みんなで楽しんでいます。メンバーは多士済々、ここにツリーハウスやピザ窯も作りました。早速パーティ。棚田跡は美しく楽しく、又文化の香りを漂わせる里山になりました。
活き粋ばあばの学舎 柴桂子さん
女性史研究家で「倉馬の里」前里長の柴桂子さんは家研究会の一員、倉馬の里設立の推進者でした。京都大学での学業を終えて今年、掛川市本郷でクラインガルテン生活を始めました。
宮城さんの運動は、着実に広がりを見せております。。一粒の麦の成長です。 (伊藤記)