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佐渡・流人の歴史ー世阿弥ー

<世阿弥>

1、 観阿弥とともに「能」の大成

猿楽から能楽へ

世阿弥は室町時代の初め,1363年に大和猿楽結埼座の猿楽師・観阿弥清次の子(藤若丸→元清)として生まれた。12歳の時、父観阿弥とともに出演した猿楽で将軍・足利義満に見いだされ、以降、義満の寵愛を受けることとなった。平安期いらい猿楽は田楽とともに民衆の物真似歌舞・喜劇として盛んであったが、観阿弥は歌舞に幽玄さを加え、狂言を分離させるなど猿楽の革新を進めた。観阿弥も世阿弥も猿楽の優れた演者であったが同時に謡曲の作家として脚本をつくり(作詞、作曲)、座の責任者として演出(所作指導など)をし、その革新を自らの実践の中で進めた。


当時の貴族や武士の好みと幽玄美が一致し、世阿弥は「風姿花伝」を書くなどして、猿楽から「能楽」への道を大成していった。しかし、将軍義満が亡くなると次の義持は田楽を好み、世阿弥を遠去けるようになった。(注=田楽は豊作を祈る田遊びから始まったと言われ「田舎猿楽」ともいわれた。)

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世阿弥、佐渡配流

世阿弥は60歳で入道となり、長男・元雅が観世座を引き継いだ。将軍は義持から義教に変わったが、義教は世阿弥親子を嫌い、世阿弥の甥の音阿弥元重を寵愛した。世阿弥が義満の子で義教の兄の義嗣の寵愛を得ており、将軍継承をめぐる兄弟間の争いが影響したとみられている。後継者元雅が巡業先で亡くなり、世阿弥がその急逝を嘆いているところへ、義教は観世座4代目を音阿弥にせよと命じてきた。そのうえ世阿弥の佐渡配流をきめた。世阿弥が音阿弥に秘伝書を見せること渋ったためではないかとの見方が多いがはっきりしない。1434年、世阿弥72歳であった。


佐渡配流となった世阿弥は同年5月に若狭小浜から船出、能登半島をめぐり、佐渡の多田浦についた。順徳上皇や日蓮は越後の寺泊からの船だったが、世阿弥は越前若狭からであり15日か20日かかったと考えられている。その様子は、佐渡で書いた「金島書」に書かれている。そこには「雪の白山ほのみえて」と白山連峰のことを書き、「珠洲の岬や七島の、海岸はるかにうつろひて」と能登のことに触れ、立山や砺波山のことなども書いている。


2、 佐渡での世阿弥

京極為兼の旧跡を訪ねて

 世阿弥の「金島書」は7編の小謡からなっており「若州」「海路」「はい処」「時鳥」「泉」「十社」「北山」と内容は紀行文風であるが、青野季吉(佐渡出身の文芸評論家)はこれを「謡曲の文体で書いた私小説」と評価した。そこには佐渡に上陸してからの越えた峠のようすや立ち寄った十一面観音像のある長谷寺のことなどを記述し、新保という村の万福寺に到着したと書いている。


世阿弥は新保到着の翌月、真野湾の入江にある八幡を訊ね、先に流された京極為兼のことを偲んだことを「時鳥」に書いている。若いころに「言葉の幽玄ならんためには歌を」と和歌を学んだ世阿弥は高名な歌人だった為兼の配流のことを知っており、為兼の詠んだ

「鳴けば聞く 聞けば都の恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす」の歌にふれて

「声もなつかしほととぎす ただ啼けや 啼けや 老いの身 われにも故郷を泣くものを」

と書いた。為兼の歌にあわせて自分の都を思う気持ちの高ぶりを表しているよ   うに思える。

 

泉で―順徳上皇と「金島書」

 世阿弥が新保にいたのは3か月ほどで「配所も合戦の巷になりしかば、在所をかへて、泉という処に宿す」ことになった。「これは、いにしへ順徳院の御配所なり」と「泉」に書いている。このころ佐渡にも地頭が群雄割拠する状況があり、その争いと思われるが新保と泉は佐渡市になる前は同じ金井町に属していたことを考えると、そんなに大きな「合戦」ではなかったようである。

 

泉の配所は現在の正法寺とされており、そこから順徳上皇の配所「黒木御所蹟」は500メートもなく、世阿弥はそこを参拝し、「・・・天離かる 鄙の長路の 御住ひ おもひやられて 傷しや。

ところは 萱の軒端の草 忍ぶの簾 絶え 絶え也。」と偲んでいる(「泉」)。また、泉では「当国十社の神まします。敬信のため一曲を法楽す。」と十社という神社で能を舞った(「十社」)。佐渡で能を舞ったという記録はこれだけであるが、前記の青野氏などはもっと何回も舞ったのではないかと書いている。

 

正法寺には世阿弥のものと伝えられている能面が一つ残っているが、伝承も世阿弥の世話をした村民が世阿弥が「一人で舞っていたのをみた」といった伝承だけである。 世阿弥が「金島書」の7編を書き上げたのは1436年であり、その後の消息は定かではない。世阿弥は佐渡に流されていた日野資朝と阿若丸の話を謡曲「檀風」にしており、他にも佐渡在島中に書かれのではないかといわれる謡曲があるが、在島中に書いたという確かな根拠はないようである。


世阿弥を佐渡配流とした義教は専横な暴君的なところがあり「公卿貴人を70人も遠流籠居せしめた」といわれるが、1441年、その義教が暗殺されるとそれらの人々が釈放された。その時に世阿弥もいっしょに放免、京に帰り、2年後に81歳で亡くなったと考えられている。


盛んだった佐渡の能

佐渡には今も島内に34か所の能舞台があり、全国の3分の1を占める数といわれる。神社の拝殿と兼用になっている能舞台を入れるとかっては90を超えたという。しかし、世阿弥が島民に直接教えた記録はなく、佐渡に能が広がり定着したのは、江戸期の初代佐渡奉行・大久保長安の業績と言われている。長安は甲府武田家の能楽師の出で能楽師や囃子方、狂言師も連れてきたという。その能は相川から広がり、神事能として各神社の祭礼に欠かせられないものになっていった。今は能を奉納する神社などは少なくなっているが、薪能などの企画などは観光客向けも含めて続いている。狂言は鷺流狂言として広がり、県の無形文化財に指定され中学生などに伝承活動が続けられている。


佐渡の伝統芸能は能の他に佐渡おけさ・相川音頭などの歌と踊り、鬼太鼓、人形芝居などがある。いずれも村、部落ごとに伝承され、○○座といった同好組織や鬼太鼓の「鼓童」のような組織も活動している。「文弥人形」などもいまも定期的に上演されている。


<まとめにかえて>

   

歴史の理解には、地方(郷里)の歴史・出来事は全国あるいは中央の歴史・出来事につながっており、双方を見ないといけないことがよく分かった。「流人」は特にそうだが、縄文時代や古墳時代をふくめても地方、地域でどうであったかが重要だと思った。

 

承久の乱と順徳上皇

古事記や日本書紀を編纂し天皇の権威の確立を図った時代、摂政関白と武士の力に対し天皇が院政で対応した時代。承久の乱が「日本の歴史上唯一の革命」とか「鎌倉デモクラシーだった」と言われるのはなぜか。明治維新で復活し国家神道の柱とされ神格を持たされて昭和期の大戦を戦った天皇、人間宣言をして民主憲法のもと象徴天皇となった現在の天皇。立憲君主制か議会君主制か、そもそも君主制=天皇とはなにか考えさせられる。


日蓮

「釈迦の宗旨はなにか?」その真意を問う姿勢、人々の個人的悩みや希望のためだけでなく社会や政治の在り方と仏教(宗教)の在り方を追求したのが特徴。日蓮は「南都八宗」に分かれている仏教を批判したが、鎌倉の新興仏教を含め現在もその状況は変わらない。キリスト教のように「神」の存在を前提とする宗教でないからそれでいいのか?

宗教が個人だけでなく社会全般の在り方に関わろうとする時に起きる問題(イスラム過激派など)をどう考えるか。


世阿弥

世阿弥は猿楽の演者から作者・作曲家として多くの謡曲をつくり、その理念をふくめ能楽を大成した。佐渡配流の理由は定かでなく「利休と秀吉のように偉大な芸術家の宿命だった」といわれる。いつ赦免され京に戻り、何時亡くなったか確かな資料がなく「当時の猿楽師の地位の低さのため」と言われる。優れた才能や立派な業績がありながら流人となったため歴史に残らない人が多いなかで、世阿弥はその作品が生涯をかたっているように思われる。

  

   参考資料

    「定本佐渡流人史」 山本仁・本間寅雄責任編集 郷土出版社

    「佐渡歴史散歩―金山と流人の光と影」 磯部欣三 創元社

    「佐渡」 青野季吉  佐渡郷土文化の会 新潟日報事業社

    「かくれた佐渡の史跡」 山本修巳 新潟日報事業社出版部

    「佐渡島 歴史散歩」 監修・佐渡博物館 河出書房新社

    「承久の乱」 阪井孝一   中公新書 中央公論新社

    「日蓮」 山岡宗八  山岡宗八歴史文庫 講談社

    「日蓮の佐渡越後―遺跡巡りの旅」本間守拙 新潟日報事業部出版部

    「世阿弥」 今泉淑夫  日本歴史学会編 吉川弘文館

    「世阿弥配流」 磯部欣三  恒文社

   


by rijityoo | 2019-04-15 14:09 |  三水会 便り(5) | Comments(0)