2019年 04月 15日
佐渡・流人の歴史ー日蓮ー
<日蓮>
1、 誕生~鎌倉
① 誕生、出家、遊学
日蓮は1222年(貞応元年、承久の乱の翌年)、安房国小湊(現鴨川市)に生まれた。頭の良い子として期待され12歳で安房一の寺・清澄寺(天台宗)に入門、16歳で出家、「蓮長」となった。
蓮長はさらに仏の教えを学ぼうと1245年、23歳の時、比叡山に上り多くの経典を読み、俊範法印について学んだ。最澄の開山した比叡山延暦寺は天台宗本山であり、その教義は根本経典を法華経におきながら天台法華、密教、禅、戒律の「四宗融合」をうたっていた。平安仏教の頂点にあり、そこでは法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)なども学んだ仏教徒の大学でもあった。
(注)仏教界の状況=奈良時代は華厳宗など「南都六宗」といわれる宗派が盛んであったが、平安時代に入ると9世紀に最澄が天台宗(比叡山)を10世紀に空海が真言宗(高野山)を開き、鎌倉時代に入ると13世紀のはじめに法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗が開かれた。天台宗は天台法華、真言宗は密教、浄土・浄土真宗は念仏、臨済・曹洞宗は禅だった。そのような状況に対し、清澄寺時代の蓮長は「釈尊の宗旨は何か。宗派は」と先輩の僧にただしたという。
そこで法華経を学んだ蓮長は密教を重視する延暦寺の現状を批判し、「法華経に戻れ」と論争したが受け入れられなかった。そして、さらに1246年から53年まで、三井寺、薬師寺、仁和寺、高野山(五坊寂静院)、天王寺、東寺とそれぞれ教義などに特徴のある寺に遊学をつづけた。奈良の古寺も訪ね、道元などとは直接面談したと言われている。
1253年、蓮長は8年ぶりに郷里・安房に戻り、清澄寺に帰山した。蓮長を後継者にと師道善は期待していたが、蓮長は「南無妙法蓮華経」を唱え、法華経こそ正しいと説法、日蓮と名を改めた。そのため念仏に帰依していた地頭の怒りをかい、鎌倉に向かった。
② 鎌倉で――辻説法と「立正安国論」
鎌倉の松葉谷に居をきめた日蓮は毎日辻に立っての説法で法華経の弘布を始めた。このころ鎌倉では地震や大洪水があり、世情は不穏であった。1260年、日蓮は「立正安国論」を書き、北条時頼(前執権、時の最高権力者)に差し出した。そこには法華経でもって国を治めないと内乱や他国の侵略が起こると書かれていた。また、念仏の禁止を主張したため念仏信者の襲撃など迫害が強まった。
1261年、騒乱の罪で伊豆に流刑となったが、2年後に放免された。
1268年、日蓮は元のフビライが国書で日本への侵攻もありうると脅したことで、予言は的中したと法華経の正しさを強調し、多宗派への批判を強めた(注)。
1271年、日蓮を批判する諸寺やその信徒などの訴えで幕府は日蓮を評定所に呼び出し尋問したが、日蓮の態度は変わらなかった。尋問した平左衛門尉頼綱が怒り、滝の口の刑場で斬首しようとした。この時、天候の急変があり兵士たちが怖気づいて斬首は取りやめとなった。そのため幕府は佐渡へ配流することとした。
(注)日蓮の「四箇格言」=①真言亡国、②禅大魔、③念仏無間、④律国賊
2、 佐渡での日蓮
① 配所での“塚原問答”
日蓮は鎌倉で多くの迫害をうけたが少なくない理解者、信徒を獲得した。弟子の中には捕らえられ、牢に入れられていたものもあるが、佐渡にも数人が同行した。一行は1271年10月、相模から12日間の陸路で越後・寺泊に至り、寺泊に6泊後、佐渡・松ヶ崎に到着した。住まいとして与えられたところは国仲の「塚原と申す山野の中の…死人を捨てるところの一間四面なる堂」であった。現在の根本寺境内だといわれる。
佐渡には法然の弟子・行空が、越後には親鸞が流された関係もあり念仏信者が多かった。日蓮を預かった守護代・本間六郎左衛門重連はそれら各宗派の者を佐渡だけでなく越後・越中など遠方からも集め法論を戦わせた。この論争(「塚原問答」)は日蓮の勝ちとなり監視役の重連や天台の学僧・最蓮なども日蓮に帰依した。日蓮はここで「開目抄」を書いた。(「我日本の柱とならん・・・眼目とならん・・・大船とならん・・」)
翌年、配所は金北山の麓の一の谷に変わり、預かった一の谷入道は念仏信者だったが、親切だった。日蓮に帰依した阿仏房、国府入道、最連坊など弟子たちの協力もあり、ここで「観心本尊抄」を著し、本尊というべき「大曼荼羅」を書き、日蓮宗の教義を確立していった。
4、日蓮放免後の佐渡
1272年、弟子・日朗が鎌倉から赦免状をもって来島、日蓮の佐渡での配所暮らしは2年半で終わった。在島期間は長くはなかったが、日蓮に帰依し様々な妨害のなかで日蓮を守った者たちの力で日蓮の教えは島民のなかに広まっていった。
最初の配所、塚原の草堂があった根本寺は、当時はまだ寺として公認されたものではなかったが、その後、京都妙覚寺の僧や上杉家の関係者の支援があり、日蓮宗の聖跡を代表する寺となった。在島中の日蓮の生活面で阿仏房夫妻の協力が大変大きかったが、阿仏房は俗名・遠藤左衛門為盛といい順徳上皇の供だったといわれているが、その為盛は1199年に佐渡に流された文覚・遠藤盛遠の末裔であり、事実であれば数奇な関係である。
その阿仏房が開祖になっているのが妙宣寺であり、県内随一の五重塔がある。その阿仏房(為盛)の弟・遠藤藤四郎盛国(日増)が開いたのが妙宣寺のすぐ近くにある世尊寺で、開祖は前記の本光寺とおなじ日興上人、二祖が日増となっている。
日蓮の第2の配所となった一の谷には弟子・学乗房日静が開祖の妙照寺があり、そのすぐちかくにある実相寺とあわせ、日蓮に関する貴重な書や画などがある。これらの寺などが興り、信徒が増えたのは日蓮が鎌倉に帰り、念仏者などの日蓮攻撃が収まってからのことであった。
3、 日蓮、身延山へ
日蓮は放免されたとはいえ、鎌倉幕府はその主張を認めたわけではなく、日蓮は鎌倉から身延山に入り、そこから日蓮宗の布教を進めることとなった。
日蓮の主張は「立正安国論」に見られるように、正しい教えがない社会は乱れ人々は苦しむ、正しい仏教と正しい政治が一体でなければならないというもので、他宗派批判とそれを取り入れている鎌倉幕府批判であった。その政治性を持った主張、激しい論争と“折伏”というやり方は日蓮の考えの本質からくるものであり、批判者からは“天下の悪僧”といわれた。佐渡に来て“塚原問答”のあと「開目抄」や「歓心本尊抄」を著した日蓮は、佐渡でその教義を完成させた。そのため「佐前佐後」という言葉がうまれたが、身延山に入った日蓮は闘う僧から「慈愛に満ちた日蓮」と言われるようになった。佐渡で世話になった人々―なかには念仏を捨てない一ノ谷入道もいたが―への感謝の手紙などをみると優しい人情のあふれるものであった。