2019年 04月 15日
佐渡・流人の歴史 -順徳上皇ー
4. 順徳上皇・日蓮・世阿弥
<順徳上皇>
① 承久の乱
1185年、平家を滅ぼした源頼朝が鎌倉幕府を発足させたが、その支配権は西国には及ばず朝廷の支配が残っており、朝廷には財力もあった。鎌倉では1199年、頼朝が急死し、2代・頼家が暗殺され、3代・実朝も頼家の子に殺されるという混乱が続いた。
幕府の混乱、弱体化をみて後鳥羽上皇が朝廷権力の復活をめざし、承久3年(1221年)討幕の兵をあげた。(院宣は幕府の権力者「北条義時追討」であり、討幕ではなかったとの見方もある)。その動きに鎌倉幕府は頼朝の妻・北条政子の檄もあり、鎌倉だけでなく諸国の兵を集め一気に京に攻め上がり朝廷軍を敗走させた(朝廷側6万人、幕府側19万人の兵力)。後鳥羽上皇は隠岐に順徳上皇は佐渡に遠流となり、挙兵に賛成しなかったといわれる土御門上皇は自分で申し出て土佐(のち阿波)に渡った。65年前の「保元の乱」で崇徳上皇が隠岐に流されて以来の天皇の流罪だった。
(注)後鳥羽上皇は安徳天皇の弟で、安徳天皇が平清盛に取り込まれる状況下で4歳で82代天皇となり(安徳天皇が壇ノ浦の闘いで入水するまで2人天皇)、19歳で上皇となり院政をしいた。83代は3歳の土御門天皇となったが後鳥羽上皇の意に添わず15歳で上皇にされ、異母弟の14歳の順徳が84代天皇になった。順徳天皇は討幕の兵をあげる直前に上皇となり(25歳)、85代は仲恭天皇となったが、幕府は在位78日で御堀川天皇に譲位させた。(「仲恭天皇」は明治3年に決められた。それまでは「承久の廃帝」と呼ばれた。この時、大友皇子→弘文天皇。淡路廃帝→淳仁天皇の3天皇が追認された。)
後鳥羽上皇は「勅選新古今和歌集」に関わり、和歌では藤原定家とも論争したといわれ、文武両面で有能とみなされていた。順徳上皇も和歌や蹴鞠を好み藤原定家親子と親しかったという。歌集は「順徳院御集」(紫禁和歌集)、佐渡での歌集「順徳院御百首」など。
この「承久の乱」で天皇と朝廷貴族による支配はおわり、武力を背景とする幕府の支配する武家社会の到来となった。「承久の乱」は支配階級が武力で交代した日本の歴史上「唯一の革命」ともいわれる出来事であった。(なお、私の国民学校のころは皇国史観によって「承久の変」と呼ばれ、戦後、「承久の乱」に戻ったが、最近、新しい歴史教科書を作る会の教科書は「承久の変」にしている。鎌倉時代の「吾妻鏡」などは「承久兵乱」や「承久逆乱」の言葉を使っている。)
② 佐渡への遠流
順徳上皇は1221年5月に起きた乱が1か月で終息、佐渡への遠流を言い渡されるとすぐ、7月には京を出立した。お供は花山園少将能氏など3人と2人の女房だったという(「吾妻鏡」による。「承久記」だとプラス男1、女1多い)。一行は警護の武士に守られながら北陸街道をとおり、越後の寺泊に至り、8月15日前後に佐渡・松ヶ崎に到着したと考えられている(「定本・佐渡流人史」、以下佐渡での事象はこの本を参考にした)。
佐渡に上陸した上皇は国司の請け取り手続きを済ませ行在所(あんざいしょ)に向かった。行在所の場所については諸説あったが、現在「黒木御所蹟」のある泉が定説になっている。
25歳で佐渡に流された上皇は京に帰る夢はかなわず、1242年の秋、在島22年目、46歳で亡くなった。現在、「真野御陵」(公式には「順徳上皇御火葬塚」)のある地で火葬され、翌年、上皇の御骨は京都の大原御陵に納められた。
③ 佐渡での暮らし
上皇の佐渡での暮らしぶりはほとんどわかっていない。佐渡に送られた流人は寺や地元の名主などに預けられ、自活の道を歩むのが普通であったが、上皇の場合は「黒木御所」と呼ばれた皮付きの丸太柱でつくられた家屋のある屋敷と一定の規模のご料地を与えられ、それを供人が耕し、生活されたと考えられている。
上皇は佐渡に渡って間もなく、京での1年前を思い出しての歌として
「雲の上に たれ待出てながめん 去年のこよひの山のはの月」
と詠み、手紙を京に出している。帰京を願う無念の想いは強かったようであるが、生活はそんなに不自由ではなかったことがうかがわれる。佐渡で詠んだ歌は藤原定家などに送り、それらは「順徳院御百首」などに載っている。また隠岐に流されていた後鳥羽上皇とも手紙のやり取りがあり、医者など人の京都との行き来もあった。
島での伝承では上皇は2人の皇女、一人の皇子をもうけたとされ、それぞれ違う集落にある一宮、二の宮、三の宮という神社の祭神とされている。「御母は宮女三人の中の誰にかありけむ定かならず。」(「佐渡志」)となっているが、土地の娘が召されて出産したという伝承もある(戦後、村娘・お花との物語がラジオドラマ「承久の悲歌」としてNHK新潟放送から放送された)。他にも皇子がいたという説があるが、いずれも結婚せずに亡くなったことになっている。
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④ 黒木御所と本光寺
順徳上皇は持仏として観音・薬師・阿弥陀・天神の4体を黒木御所の四方に安置、礼拝していたと言われる。その観音像が安置されているのが、御所蹟のすぐ前にある本光寺である。黒木御所に出仕し観音別当だった隣村・中興の地頭の息子・平吾安光が上皇崩御のあと観音堂を守っていたが、日蓮とともに来島した弟子・日興の教化により本光寺を開創したといわれる。平安時代の作といわれる木造の観音像は明治期に彫刻家・高村光雲の鑑定で国宝の指定をうけたが、いまは国の重要文化財とされている。
順徳上皇はこの観音像などに赦免が出ることを祈り、後鳥羽上皇などとの再会を夢見ていたと思われるが、土御門上皇についで後鳥羽上皇も隠岐島在島20年で亡くなり、自らの皇子の皇位継承も絶たれたことを知り、断食をつづけ、自らの命を絶ったと伝えられる。
<後鳥羽上皇と順徳上皇の和歌>
後鳥羽上皇
「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆえに もの思う身は」(小倉百人一首99番)
「限りあれば 萱が軒端の月も見つ 知らぬは人の行末の空」(隠岐で)
順徳上皇
「ももしきや 古き軒端のしのぶにも 猶あまりある 昔なりけり」(同上100番)
「いかにせん 奥も隠れぬ笹垣の あらはに薄き人のこころを」(佐渡で「順徳院御百首」)
「秋風の吹うらかへす小夜衣 見果てぬ夢は 見るかひもなし」(同上)
「逢うとみて 覚める夢路の名残だに なお惜しまるるあかつきの空」(同上)