2019年 04月 15日
佐渡・流人の歴史-流人の歴史
2、流人の歴史
①古代・中世―「遠流」の歴史
佐渡への流人の第1号は722年(養老6年)に流された万葉歌人の式部大輔穂積朝臣老(ほづみあそみおゆ)。元正天皇(女帝)への不敬な行いが理由だった(740年赦免、帰京)。その後、724年(神亀元年)に佐渡は島流し・流刑のうち「近流・こんる」「中流」「遠流・おんる」の「遠流」の地と決められた。
律令下の刑罰=死・流・徒(服役)・杖・笞。死刑は実施されず
遠流だった。
遠流の地――伊豆、安房、常陸、隠岐、土佐、佐渡
佐渡に遠流となった人は、奈良時代に4人、平安時代に入ると8世紀に5人、9Cに9人、10Cに2人、⒒Cに9人、12C19人、計44人だった。12世紀末からの鎌倉時代には1221年の順徳上皇、1271年の日蓮を含め16人が、14世紀の室町時代には1434年の世阿弥など4人が流人となった。
奈良、平安、鎌倉の約700年のあいだにほぼ70人が佐渡に流されている。天皇であった人を含め政治の中枢にいた者や宗教や文化で重要な立場にいた人たちであり、その推移は日本の古代、中世の歴史の重要な一面を物語っている。なお、戦国時代(信長、秀吉の時代の役30年)は統一国家としての機能が働かず、佐渡への流人はいなかった。
① 江戸時代--「遠島」と「無宿者」
江戸時代になり、政治の中心が江戸になると流刑の考えや内容も変化することになった。上級階層の政治犯は減少し、賭博・傷害・盗み・放火などの重犯者などで死刑の次の刑罰として「遠島」処分が位置づけられた。江戸時代初期には幕府ではなく朝廷の決定=朝旨によって京都から佐渡に流された者が4件・6人あったが、他は幕府による「遠島」者で1612年(慶長17年)から1700年(元禄13年)までで251人にのぼった。
江戸期の「遠島」の場所は、1742年(寛保2年)の「公事方御定書」で江戸からは大島・八丈島・三宅島、京からは薩摩五島・隠岐・天草になった。佐渡については金の産出を重視する幕府直轄領として佐渡奉行所が置かれ、「御構場所(おかまいものどころ)」という流刑者などを送ってはならないところとなった。そのため1700年以降は佐渡には「遠島」の記録はない。
ただし、「人別帳」に載らない「無宿者」が軽微な罪で佐渡送りされ、金山の水替え労働者として働かされたという実態が別に存在する。「御構場所」の裏の実態であり、そこでの過酷な労働と暮らしはかっての流人とは比較にならないものだった。
② 流人の島での扱い
古代・中世の流刑は一種の追放刑であり、配所での生活、行動を強く束縛するものではなかった。その道中は妻妾は同伴、父祖子孫は任意。警備の武士がつき、その分をふくめ道中の食事、具馬、宿は道中の国が負担(佐渡への港・寺泊のある越後国の負担は大きかった。)
流人(プラス同伴者)を受け取った国司は米・塩、田畑と種を与え、のち自活させた。約70人の流刑者のうち放免された者は21人で、自害や脱走などもあったようであるが、多くは百姓になるなど島の人になって過ごしたと思われている。順徳上皇、日蓮、世阿弥も後で見るように島での行動はかなり自由だったといえる。
江戸期の遠島の刑の場合も流人の扱いは基本的に同じで、佐渡奉行所が指名する町役や問屋筋(海運・商人)が「身請け人」となり、店で働かせたり、手職を生かさせたり自活させた。島で世帯をもち放免されても島に残った例も少なくない。
佐渡と越後の距離は最短で40㎞位で八丈島は300㎞もあるが、佐渡では「島抜け・乗り逃げ」の例は極めて少なく、八丈島はかなり記録されている。自活するための条件・耕地や島人との関係が佐渡の方が良好だったためと思われる。
④ 佐渡の歴史と3つの文化
古代・中世の佐渡には流人の第1号が万葉歌人だった穂積朝臣老だったように流人によって国府のあった国仲平野に京の貴族文化が流れ込み、江戸期には大佐渡の金山の発展で相川に佐渡奉行所が置かれ、武家文化が浸透した。最初に砂金が算出した小佐渡は南端・小木港が佐渡奉行などが上陸する公津であったが北前船などの寄港地として発展し、町人文化が盛んになった。
そのため、佐渡は小佐渡、国仲、大佐渡で文化=風習や言葉などに違いがあるといわれたが、今は殆んど一体である。越後上杉氏の支配下にあった時代は短く、江戸期は幕府の直轄領であり、歴史的には越後よりも京・関西の影響を強く受け、その名残のある島といえる。
3、 古代・中世の主な流人
この時代の代表的な流人の順徳上皇、日蓮、世阿弥については後述するが、その他の特徴的な人や事例をあげておきたい。
① 平安時代
三国真人広見――平安期の785年佐渡へ。謀反を誣告した罪。越後、能登の国司。佐渡国分寺の遺跡から三国真人の名と肖像画が彫られた瓦が出て、本人の作とされている。
4人組で――839年に「遣唐船への乗船を拒否し、共謀して逃亡した罪」で4人が一緒に流された。流人は1件1人が通常で、2人一緒は3件で4人はこれのみだった。4人は「従7位上伴宿祢有仁」など、今でいう高級官僚の人であった。
源義綱――1109年佐渡へ。兄・八幡太郎義家とともに「前9年の役」などで戦った武将。義家と反目、源氏棟梁の地位をめぐる争いで流刑となる。
式部大輔・入道盛憲――1156年に続き
源蔵人太夫・小国頼行――1157年佐渡へ。二人は「保元の乱」(1156年)で天皇として初めて讃岐に流された祟徳上皇に連座して、佐渡への遠流の刑を受けた。小国頼行は道中で自害し、入道盛憲は6年後に放免された。
*佐渡から伊豆への流刑――805年、佐渡国人・道公全成が官鵜を盗み伊豆に流された。平安時代、佐渡では鵜飼のための鵜を朝廷用に採り育てていた。
② 鎌倉時代
文覚・遠藤盛遠――1199年佐渡へ。北面の武士。源(渡辺)渡の妻・袈裟に恋慕、間違えて殺し、出家し文覚(もんがく)となった。流された伊豆で同じく流人だった源頼朝と共謀、後白河法皇を動かし平家を打つ。頼朝を頼りに後鳥羽上皇を排斥する動きをすすめ、失敗、佐渡へ。袈裟との関係が「平家物語」などに書かれ、謡曲「恋塚」や芥川龍之介の小説などで有名。
法本坊行空――1208年佐渡へ。浄土念仏を唱えた法然の弟子。法然の教えは貴族階級の現世的幸福をもたらすことを目指す当時の南都諸宗の迫害を受けた。師の法然は1207年、後鳥羽上皇の怒りにふれ土佐に流され、親鸞も越後に流されていた(「承元の法難」)。
権中納言・京極為兼――1298年佐渡へ。藤原定家の曽孫で歌人で持明院統(北朝)の歌の師範。持明院統は大覚寺統(南朝)と皇位を争っており、為兼の動きを幕府が不穏とみて佐渡配流となった。8年後に赦免、京に戻り勅撰和歌集「玉葉和歌集」の撰者となった。
権中納言・日野資朝――1325年佐渡へ。後醍醐天皇のもとで日野俊基らとともに起こした討幕運動「正中の変」で流罪となる。後醍醐天皇は1331年の2度目の倒幕運動に敗れ隠岐に流された。そのこともあり、資朝は1332年、佐渡で斬首された。その子・阿若丸の物語(「太平記」)は世阿弥の謡曲「檀風」となった。