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四国の吉野川に約800mの橋を設計、施工、記録した佐藤一夫氏が94歳で亡くなられる

私が佐藤一夫氏とお会いしたのは、郷里徳島県美馬市主催の文化祭である。佐藤氏は徳島県土木部参与を退官され、美馬市の文化協会会長、8mm同好会や句会の会長で郷里で活躍されていた。それ以来、8mmのデジタル化、科学映像館へ8mmの提供など約10年交流を。83歳から8mmをデジカメに変え、映像の撮影に切り替えた。
佐藤氏の作品には脚本がなく、頭に描いた内容を即撮影、作品化。科学映画の父と言われた小林米作氏とそっくりである。小林さんとは骨の科学映画を13年で3作品仕上げたが、一度も脚本、絵コンテなどを見たことがない。第3作「OSTEOCYTE」製作時、先生今度は「濡れ」ですねのひとこと。骨細胞は体液に浸って活動している。これは描きたかった。小林さん96歳、これが彼の遺作となったのである。

佐藤氏とは、接し方はことなるが、小林さんと・・・・。94歳で亡くなられたが、2週間前、お見舞いの電話を。もう少しお付き合いをが最後の言葉となる。ご冥福を祈りし、彼の代表作と橋にかけた想いを。ほんとにありがとうございました。

人間誰でも一生のうちに素晴らしい生きがいを感じる時がある。私の場合、半世紀前(約50年前)32、33歳の頃、橋梁技術者として有頂天になった時期があった。名田橋架設工事との出会いである。

名田橋というのは、地名から私が付けた名前。当時そこに橋はなかった。渡し船が船頭さんの櫓と櫂で漕がれ、小型三輪以下が運ばれていた。徳島市と北岸藍住町を結ぶ幹線。主要地方道第1号線である。

計画された橋の構造は、当時、日本の長大橋ではまったく経験したことのないドイツ、ディッカホフ・ヴィドマン社の特許工法「デイビダーク式PC工法」である。この上部桁の大きな重量を支える下部橋脚の基礎には、これまた当時としては沈下施工不可能ではないかといわれた、深さ32mにも及ぶ巨大井筒が必要であった。若い技術者の私は燃えた。

今からみれば当たり前、いや幼稚かも知れないが、当時としては最先端の技術を駆使して斬新なアイデアも編みだしたと自負している。この先進技術を余すことなく後輩へ伝えねばならない。その伝える方法としては、工事写真・工事記録・日誌等。これではどうも適切に表現できないのではないか。

そうだ! 私の趣味である8mmカメラでプロの映像には及ばないでも、プロには撮れない細部を詳細に記録したい。この一念がこの架橋工事記録に凝集された。撮影技術はお粗末でも、架橋技術上のポイントは逃さず記録できたと思っている。冗長にも思えるがこれも止むを得まい。

技術の進歩は素晴らしく速い。4カ年の工事期間中にも次々と斬新な改良が見られた。またドイツの示方書の受け売りが、日本の建設材料にマッチしない不都合も発見された。日本の橋梁技術の向上に大いに役立ったと思っている。

この撮影を橋梁完成まで追い続ける意味はない。
橋梁完成を待たず、この記録映画は完成をみた。
それは記録すべき先端技術は撮影し尽くしたからである。

今(50年後)見ると懐かしい「手作りの技術」。
私の有頂天の時間は昭和34年~38年。私の生き甲斐は、今もこの「名田橋架設工事記録」に息づいている。

スタッフ

撮影・編集・制作:佐藤一夫

この映画は、制作者である佐藤一夫氏のご援助により、
デジタル化配信しています。」






by rijityoo | 2021-08-26 10:02 | 活動の蔵(1、208) | Comments(0)