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久米さんの科学映像便り
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科学映像館理事長の久米さん。映像遺産を守り、生かすための日々!
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by rijityoo | 2019-04-19 16:14 | 活動の蔵(1、208) | Comments(0)
佐渡・流人の歴史 ―順徳上皇、日蓮、世阿弥―

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 三水会報告      斎藤嘉璋

  2019320日 神田・学士会館

       

       斎藤壽璋氏:新潟県佐渡市出身

             早稲田大学卒業



             <はじめに>

   

  佐渡の真野町生まれの私は、戦時中の国民学校のころ順徳上皇が祀られている真野宮やその奥にある真野御陵に行き、拝礼と掃除の奉仕をしました。終戦後、寺の住職となった父に伴い金井町泉の本光寺に移りましたが、その寺は佐渡に流された日蓮の直弟子が開祖の日蓮宗の寺で、本尊としている観音菩薩像は順徳上皇が京から持ってきたといわれる仏像でした。その寺のすぐ前に順徳上皇が25歳から46歳で亡くなるまでいたと言われている黒木御所蹟があり、5、6分ほど歩くと世阿弥が70歳で流されてきて8年間いたといわれる正法寺がありました。

  

  という縁があり、佐渡・流人の歴史を3人のことを中心に調べ、まとめてみたいと思いました。その縁のため、それぞれの方の歴史に個人的思いがなくはないのですが、そのためにこの報告が偏ったものにならないよう心掛けました。幼い時から聞たり見たりしたことが間違っていることもあるので、資料なども調べ直してみました。知らなかったことが多く、勉強になりました。

  

  古代から中世までの佐渡・流人の歴史は当然、当時の日本の歴史を反映しており、改めて日本の歴史の勉強になりました。また、順徳上皇、日蓮、世阿弥はたまたま政治、宗教、文化の分野を象徴する存在であり、その3分野の出来事を一緒に学べたのが有意義でした。

その一端を「三水会」で報告でき幸いです。

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1. 佐渡の概要

佐渡の概要

2004年に佐渡島全部の172村が合併、佐渡市になった。面積855平方キロ・東京23区の1.5倍。周囲約260キロ。人口5万⒍000人、1950年代の半分以下(江戸期、相川金山だけで5万人)。

*地形と気候―大佐渡、国仲平野、小佐渡。最高峰・金北山1172

(地図参照)

*新潟港~両津港 約50㎞(高速艇で1時間、カーフェリー

2時間30分)

 古代・中世の流人の経路=越後・渡戸(寺泊)~佐渡・松ヶ崎約

(40km)

  

佐渡の古い歴史

佐渡が島には1万年前から人が住んでいたと考えられているが、紀元前5000年ころの縄文遺跡や前2500年ころの貝塚遺跡があり、弥生時代の玉作り遺跡、古墳時代の古墳群の存在など、その歴史は古い。


古い歴史書には古事記の国造り神話に登場、544年に「佐渡島に粛慎人(大陸のツングース族)が来た」(日本書紀)とか、752年には渤海国の使節が佐渡に来た(続日本紀)と書かれた。


764年(天平宝字8年)は佐渡国分寺が建立された。律令国家としての一大事業であり、天平文化の象徴。その国分寺建立の前から佐渡への「遠流」は始まっており、大和政権は早くから佐渡に関する認識を持っていたと思われる。


その後「今昔物語」(12世紀半ば)や「宇治拾遺集」(13世紀前半)には佐渡で金が取れた話などが記載されている。

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by rijityoo | 2019-04-15 14:41 | Comments(0)
佐渡・流人の歴史-流人の歴史

2、流人の歴史

①古代・中世―「遠流」の歴史

佐渡への流人の第1号は722年(養老6年)に流された万葉歌人の式部大輔穂積朝臣老(ほづみあそみおゆ)。元正天皇(女帝)への不敬な行いが理由だった(740年赦免、帰京)。その後、724年(神亀元年)に佐渡は島流し・流刑のうち「近流・こんる」「中流」「遠流・おんる」の「遠流」の地と決められた。

律令下の刑罰=死・流・徒(服役)・杖・笞。死刑は実施されず

遠流だった。

遠流の地――伊豆、安房、常陸、隠岐、土佐、佐渡


佐渡に遠流となった人は、奈良時代に4人、平安時代に入ると8世紀に5人、9C9人、10C2人、⒒C9人、12C19人、計44人だった。12世紀末からの鎌倉時代には1221年の順徳上皇、1271年の日蓮を含め16人が、14世紀の室町時代には1434年の世阿弥など4人が流人となった。


奈良、平安、鎌倉の約700年のあいだにほぼ70人が佐渡に流されている。天皇であった人を含め政治の中枢にいた者や宗教や文化で重要な立場にいた人たちであり、その推移は日本の古代、中世の歴史の重要な一面を物語っている。なお、戦国時代(信長、秀吉の時代の役30年)は統一国家としての機能が働かず、佐渡への流人はいなかった。


江戸時代--「遠島」と「無宿者」

江戸時代になり、政治の中心が江戸になると流刑の考えや内容も変化することになった。上級階層の政治犯は減少し、賭博・傷害・盗み・放火などの重犯者などで死刑の次の刑罰として「遠島」処分が位置づけられた。江戸時代初期には幕府ではなく朝廷の決定=朝旨によって京都から佐渡に流された者が4件・6人あったが、他は幕府による「遠島」者で1612年(慶長17年)から1700年(元禄13年)までで251人にのぼった。


江戸期の「遠島」の場所は、1742年(寛保2年)の「公事方御定書」で江戸からは大島・八丈島・三宅島、京からは薩摩五島・隠岐・天草になった。佐渡については金の産出を重視する幕府直轄領として佐渡奉行所が置かれ、「御構場所(おかまいものどころ)」という流刑者などを送ってはならないところとなった。そのため1700年以降は佐渡には「遠島」の記録はない。


ただし、「人別帳」に載らない「無宿者」が軽微な罪で佐渡送りされ、金山の水替え労働者として働かされたという実態が別に存在する。「御構場所」の裏の実態であり、そこでの過酷な労働と暮らしはかっての流人とは比較にならないものだった。


流人の島での扱い

 古代・中世の流刑は一種の追放刑であり、配所での生活、行動を強く束縛するものではなかった。その道中は妻妾は同伴、父祖子孫は任意。警備の武士がつき、その分をふくめ道中の食事、具馬、宿は道中の国が負担(佐渡への港・寺泊のある越後国の負担は大きかった。)


流人(プラス同伴者)を受け取った国司は米・塩、田畑と種を与え、のち自活させた。約70人の流刑者のうち放免された者は21人で、自害や脱走などもあったようであるが、多くは百姓になるなど島の人になって過ごしたと思われている。順徳上皇、日蓮、世阿弥も後で見るように島での行動はかなり自由だったといえる。

 

 江戸期の遠島の刑の場合も流人の扱いは基本的に同じで、佐渡奉行所が指名する町役や問屋筋(海運・商人)が「身請け人」となり、店で働かせたり、手職を生かさせたり自活させた。島で世帯をもち放免されても島に残った例も少なくない。

 

 佐渡と越後の距離は最短で40㎞位で八丈島は300㎞もあるが、佐渡では「島抜け・乗り逃げ」の例は極めて少なく、八丈島はかなり記録されている。自活するための条件・耕地や島人との関係が佐渡の方が良好だったためと思われる。


佐渡の歴史と3つの文化

古代・中世の佐渡には流人の第1号が万葉歌人だった穂積朝臣老だったように流人によって国府のあった国仲平野に京の貴族文化が流れ込み、江戸期には大佐渡の金山の発展で相川に佐渡奉行所が置かれ、武家文化が浸透した。最初に砂金が算出した小佐渡は南端・小木港が佐渡奉行などが上陸する公津であったが北前船などの寄港地として発展し、町人文化が盛んになった。


そのため、佐渡は小佐渡、国仲、大佐渡で文化=風習や言葉などに違いがあるといわれたが、今は殆んど一体である。越後上杉氏の支配下にあった時代は短く、江戸期は幕府の直轄領であり、歴史的には越後よりも京・関西の影響を強く受け、その名残のある島といえる。


3、 古代・中世の主な流人

 この時代の代表的な流人の順徳上皇、日蓮、世阿弥については後述するが、その他の特徴的な人や事例をあげておきたい。

平安時代

三国真人広見――平安期の785年佐渡へ。謀反を誣告した罪。越後、能登の国司。佐渡国分寺の遺跡から三国真人の名と肖像画が彫られた瓦が出て、本人の作とされている。

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4人組で――839年に「遣唐船への乗船を拒否し、共謀して逃亡した罪」で4人が一緒に流された。流人は1件1人が通常で、2人一緒は3件で4人はこれのみだった。4人は「従7位上伴宿祢有仁」など、今でいう高級官僚の人であった。

 源義綱――1109年佐渡へ。兄・八幡太郎義家とともに「前9年の役」などで戦った武将。義家と反目、源氏棟梁の地位をめぐる争いで流刑となる。

式部大輔・入道盛憲――1156年に続き

源蔵人太夫・小国頼行――1157年佐渡へ。二人は「保元の乱」(1156年)で天皇として初めて讃岐に流された祟徳上皇に連座して、佐渡への遠流の刑を受けた。小国頼行は道中で自害し、入道盛憲は6年後に放免された。

佐渡から伊豆への流刑――805年、佐渡国人・道公全成が官鵜を盗み伊豆に流された。平安時代、佐渡では鵜飼のための鵜を朝廷用に採り育てていた。


鎌倉時代

 文覚・遠藤盛遠――1199年佐渡へ。北面の武士。源(渡辺)渡の妻・袈裟に恋慕、間違えて殺し、出家し文覚(もんがく)となった。流された伊豆で同じく流人だった源頼朝と共謀、後白河法皇を動かし平家を打つ。頼朝を頼りに後鳥羽上皇を排斥する動きをすすめ、失敗、佐渡へ。袈裟との関係が「平家物語」などに書かれ、謡曲「恋塚」や芥川龍之介の小説などで有名。

 

 法本坊行空――1208年佐渡へ。浄土念仏を唱えた法然の弟子。法然の教えは貴族階級の現世的幸福をもたらすことを目指す当時の南都諸宗の迫害を受けた。師の法然は1207年、後鳥羽上皇の怒りにふれ土佐に流され、親鸞も越後に流されていた(「承元の法難」)。

 

 権中納言・京極為兼――1298年佐渡へ。藤原定家の曽孫で歌人で持明院統(北朝)の歌の師範。持明院統は大覚寺統(南朝)と皇位を争っており、為兼の動きを幕府が不穏とみて佐渡配流となった。8年後に赦免、京に戻り勅撰和歌集「玉葉和歌集」の撰者となった。


権中納言・日野資朝――1325年佐渡へ。後醍醐天皇のもとで日野俊基らとともに起こした討幕運動「正中の変」で流罪となる。後醍醐天皇1331年の2度目の倒幕運動に敗れ隠岐に流された。そのこともあり、資朝は1332年、佐渡で斬首された。その子・阿若丸の物語(「太平記」)は世阿弥の謡曲「檀風」となった。


by rijityoo | 2019-04-15 14:34 | Comments(0)
佐渡・流人の歴史 -順徳上皇ー

   4. 順徳上皇・日蓮・世阿弥

<順徳上皇>

① 承久の乱

1185年、平家を滅ぼした源頼朝が鎌倉幕府を発足させたが、その支配権は西国には及ばず朝廷の支配が残っており、朝廷には財力もあった。鎌倉では1199年、頼朝が急死し、2代・頼家が暗殺され、3代・実朝も頼家の子に殺されるという混乱が続いた。


幕府の混乱、弱体化をみて後鳥羽上皇が朝廷権力の復活をめざし、承久3年(1221年)討幕の兵をあげた。(院宣は幕府の権力者「北条義時追討」であり、討幕ではなかったとの見方もある)。その動きに鎌倉幕府は頼朝の妻・北条政子の檄もあり、鎌倉だけでなく諸国の兵を集め一気に京に攻め上がり朝廷軍を敗走させた(朝廷側6万人、幕府側19万人の兵力)。後鳥羽上皇は隠岐に順徳上皇は佐渡に遠流となり、挙兵に賛成しなかったといわれる土御門上皇は自分で申し出て土佐(のち阿波)に渡った。65年前の「保元の乱」で崇徳上皇が隠岐に流されて以来の天皇の流罪だった。

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 (注)後鳥羽上皇は安徳天皇の弟で、安徳天皇が平清盛に取り込まれる状況下で4歳で82代天皇となり(安徳天皇が壇ノ浦の闘いで入水するまで2人天皇)、19歳で上皇となり院政をしいた。83代は3歳の土御門天皇となったが後鳥羽上皇の意に添わず15歳で上皇にされ、異母弟の14歳の順徳が84代天皇になった。順徳天皇は討幕の兵をあげる直前に上皇となり(25歳)、85代は仲恭天皇となったが、幕府は在位78日で御堀川天皇に譲位させた。(「仲恭天皇」は明治3年に決められた。それまでは「承久の廃帝」と呼ばれた。この時、大友皇子→弘文天皇。淡路廃帝→淳仁天皇の3天皇が追認された。)

  

  後鳥羽上皇は「勅選新古今和歌集」に関わり、和歌では藤原定家とも論争したといわれ、文武両面で有能とみなされていた。順徳上皇も和歌や蹴鞠を好み藤原定家親子と親しかったという。歌集は「順徳院御集」(紫禁和歌集)、佐渡での歌集「順徳院御百首」など。


この「承久の乱」で天皇と朝廷貴族による支配はおわり、武力を背景とする幕府の支配する武家社会の到来となった。「承久の乱」は支配階級が武力で交代した日本の歴史上「唯一の革命」ともいわれる出来事であった。(なお、私の国民学校のころは皇国史観によって「承久の変」と呼ばれ、戦後、「承久の乱」に戻ったが、最近、新しい歴史教科書を作る会の教科書は「承久の変」にしている。鎌倉時代の「吾妻鏡」などは「承久兵乱」や「承久逆乱」の言葉を使っている。)


佐渡への遠流

 順徳上皇は12215月に起きた乱が1か月で終息、佐渡への遠流を言い渡されるとすぐ、7月には京を出立した。お供は花山園少将能氏など3人と2人の女房だったという(「吾妻鏡」による。「承久記」だとプラス男1、女1多い)。一行は警護の武士に守られながら北陸街道をとおり、越後の寺泊に至り、815日前後に佐渡・松ヶ崎に到着したと考えられている(「定本・佐渡流人史」、以下佐渡での事象はこの本を参考にした)。

 

 佐渡に上陸した上皇は国司の請け取り手続きを済ませ行在所(あんざいしょ)に向かった。行在所の場所については諸説あったが、現在「黒木御所蹟」のある泉が定説になっている。

25歳で佐渡に流された上皇は京に帰る夢はかなわず、1242年の秋、在島22年目、46歳で亡くなった。現在、「真野御陵」(公式には「順徳上皇御火葬塚」)のある地で火葬され、翌年、上皇の御骨は京都の大原御陵に納められた。


佐渡での暮らし

上皇の佐渡での暮らしぶりはほとんどわかっていない。佐渡に送られた流人は寺や地元の名主などに預けられ、自活の道を歩むのが普通であったが、上皇の場合は「黒木御所」と呼ばれた皮付きの丸太柱でつくられた家屋のある屋敷と一定の規模のご料地を与えられ、それを供人が耕し、生活されたと考えられている。

 

 上皇は佐渡に渡って間もなく、京での1年前を思い出しての歌として

「雲の上に たれ待出てながめん 去年のこよひの山のはの月」

と詠み、手紙を京に出している。帰京を願う無念の想いは強かったようであるが、生活はそんなに不自由ではなかったことがうかがわれる。佐渡で詠んだ歌は藤原定家などに送り、それらは「順徳院御百首」などに載っている。また隠岐に流されていた後鳥羽上皇とも手紙のやり取りがあり、医者など人の京都との行き来もあった。

 

 島での伝承では上皇は2人の皇女、一人の皇子をもうけたとされ、それぞれ違う集落にある一宮、二の宮、三の宮という神社の祭神とされている。「御母は宮女三人の中の誰にかありけむ定かならず。」(「佐渡志」)となっているが、土地の娘が召されて出産したという伝承もある(戦後、村娘・お花との物語がラジオドラマ「承久の悲歌」としてNHK新潟放送から放送された)。他にも皇子がいたという説があるが、いずれも結婚せずに亡くなったことになっている。

えy7

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黒木御所と本光寺

順徳上皇は持仏として観音・薬師・阿弥陀・天神の4体を黒木御所の四方に安置、礼拝していたと言われる。その観音像が安置されているのが、御所蹟のすぐ前にある本光寺である。黒木御所に出仕し観音別当だった隣村・中興の地頭の息子・平吾安光が上皇崩御のあと観音堂を守っていたが、日蓮とともに来島した弟子・日興の教化により本光寺を開創したといわれる。平安時代の作といわれる木造の観音像は明治期に彫刻家・高村光雲の鑑定で国宝の指定をうけたが、いまは国の重要文化財とされている。

 

 順徳上皇はこの観音像などに赦免が出ることを祈り、後鳥羽上皇などとの再会を夢見ていたと思われるが、土御門上皇についで後鳥羽上皇も隠岐島在島20年で亡くなり、自らの皇子の皇位継承も絶たれたことを知り、断食をつづけ、自らの命を絶ったと伝えられる。

 

<後鳥羽上皇と順徳上皇の和歌>

  後鳥羽上皇

「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆえに もの思う身は」(小倉百人一首99番)

「限りあれば 萱が軒端の月も見つ 知らぬは人の行末の空」(隠岐で)

  

  順徳上皇

「ももしきや 古き軒端のしのぶにも 猶あまりある 昔なりけり」(同上100番)

「いかにせん 奥も隠れぬ笹垣の あらはに薄き人のこころを」(佐渡で「順徳院御百首」)

「秋風の吹うらかへす小夜衣 見果てぬ夢は 見るかひもなし」(同上)

    「逢うとみて 覚める夢路の名残だに なお惜しまるるあかつきの空」(同上)


by rijityoo | 2019-04-15 14:28 | Comments(0)
佐渡・流人の歴史ー日蓮ー

<日蓮>

1、 誕生~鎌倉

誕生、出家、遊学

日蓮は1222年(貞応元年、承久の乱の翌年)、安房国小湊(現鴨川市)に生まれた。頭の良い子として期待され12歳で安房一の寺・清澄寺(天台宗)に入門、16歳で出家、「蓮長」となった。


蓮長はさらに仏の教えを学ぼうと1245年、23歳の時、比叡山に上り多くの経典を読み、俊範法印について学んだ。最澄の開山した比叡山延暦寺は天台宗本山であり、その教義は根本経典を法華経におきながら天台法華、密教、禅、戒律の「四宗融合」をうたっていた。平安仏教の頂点にあり、そこでは法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)なども学んだ仏教徒の大学でもあった。


(注)仏教界の状況=奈良時代は華厳宗など「南都六宗」といわれる宗派が盛んであったが、平安時代に入ると9世紀に最澄が天台宗(比叡山)を10世紀に空海が真言宗(高野山)を開き、鎌倉時代に入ると13世紀のはじめに法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗が開かれた。天台宗は天台法華、真言宗は密教、浄土・浄土真宗は念仏、臨済・曹洞宗は禅だった。そのような状況に対し、清澄寺時代の蓮長は「釈尊の宗旨は何か。宗派は」と先輩の僧にただしたという。


そこで法華経を学んだ蓮長は密教を重視する延暦寺の現状を批判し、「法華経に戻れ」と論争したが受け入れられなかった。そして、さらに1246年から53年まで、三井寺、薬師寺、仁和寺、高野山(五坊寂静院)、天王寺、東寺とそれぞれ教義などに特徴のある寺に遊学をつづけた。奈良の古寺も訪ね、道元などとは直接面談したと言われている。


1253年、蓮長は8年ぶりに郷里・安房に戻り、清澄寺に帰山した。蓮長を後継者にと師道善は期待していたが、蓮長は「南無妙法蓮華経」を唱え、法華経こそ正しいと説法、日蓮と名を改めた。そのため念仏に帰依していた地頭の怒りをかい、鎌倉に向かった。


鎌倉で――辻説法と「立正安国論」

     鎌倉の松葉谷に居をきめた日蓮は毎日辻に立っての説法で法華経の弘布を始めた。このころ鎌倉では地震や大洪水があり、世情は不穏であった。1260年、日蓮は「立正安国論」を書き、北条時頼(前執権、時の最高権力者)に差し出した。そこには法華経でもって国を治めないと内乱や他国の侵略が起こると書かれていた。また、念仏の禁止を主張したため念仏信者の襲撃など迫害が強まった。

     

     1261年、騒乱の罪で伊豆に流刑となったが、2年後に放免された。

     1268年、日蓮は元のフビライが国書で日本への侵攻もありうると脅したことで、予言は的中したと法華経の正しさを強調し、多宗派への批判を強めた(注)。


1271年、日蓮を批判する諸寺やその信徒などの訴えで幕府は日蓮を評定所に呼び出し尋問したが、日蓮の態度は変わらなかった。尋問した平左衛門尉頼綱が怒り、滝の口の刑場で斬首しようとした。この時、天候の急変があり兵士たちが怖気づいて斬首は取りやめとなった。そのため幕府は佐渡へ配流することとした。

(注)日蓮の「四箇格言」=①真言亡国、②禅大魔、③念仏無間、④律国賊


2、 佐渡での日蓮

配所での“塚原問答” 

    日蓮は鎌倉で多くの迫害をうけたが少なくない理解者、信徒を獲得した。弟子の中には捕らえられ、牢に入れられていたものもあるが、佐渡にも数人が同行した。一行は127110月、相模から12日間の陸路で越後・寺泊に至り、寺泊に6泊後、佐渡・松ヶ崎に到着した。住まいとして与えられたところは国仲の「塚原と申す山野の中の…死人を捨てるところの一間四面なる堂」であった。現在の根本寺境内だといわれる。

    

     佐渡には法然の弟子・行空が、越後には親鸞が流された関係もあり念仏信者が多かった。日蓮を預かった守護代・本間六郎左衛門重連はそれら各宗派の者を佐渡だけでなく越後・越中など遠方からも集め法論を戦わせた。この論争(「塚原問答」)は日蓮の勝ちとなり監視役の重連や天台の学僧・最蓮なども日蓮に帰依した。日蓮はここで「開目抄」を書いた。(「我日本の柱とならん・・・眼目とならん・・・大船とならん・・」)

    

     翌年、配所は金北山の麓の一の谷に変わり、預かった一の谷入道は念仏信者だったが、親切だった。日蓮に帰依した阿仏房、国府入道、最連坊など弟子たちの協力もあり、ここで「観心本尊抄」を著し、本尊というべき「大曼荼羅」を書き、日蓮宗の教義を確立していった。


4、日蓮放免後の佐渡 

    1272年、弟子・日朗が鎌倉から赦免状をもって来島、日蓮の佐渡での配所暮らしは2年半で終わった。在島期間は長くはなかったが、日蓮に帰依し様々な妨害のなかで日蓮を守った者たちの力で日蓮の教えは島民のなかに広まっていった。

    

    最初の配所、塚原の草堂があった根本寺は、当時はまだ寺として公認されたものではなかったが、その後、京都妙覚寺の僧や上杉家の関係者の支援があり、日蓮宗の聖跡を代表する寺となった。在島中の日蓮の生活面で阿仏房夫妻の協力が大変大きかったが、阿仏房は俗名・遠藤左衛門為盛といい順徳上皇の供だったといわれているが、その為盛は1199年に佐渡に流された文覚・遠藤盛遠の末裔であり、事実であれば数奇な関係である。

    

    その阿仏房が開祖になっているのが妙宣寺であり、県内随一の五重塔がある。その阿仏房(為盛)の弟・遠藤藤四郎盛国(日増)が開いたのが妙宣寺のすぐ近くにある世尊寺で、開祖は前記の本光寺とおなじ日興上人、二祖が日増となっている。

    

     日蓮の第2の配所となった一の谷には弟子・学乗房日静が開祖の妙照寺があり、そのすぐちかくにある実相寺とあわせ、日蓮に関する貴重な書や画などがある。これらの寺などが興り、信徒が増えたのは日蓮が鎌倉に帰り、念仏者などの日蓮攻撃が収まってからのことであった。

    

3、 日蓮、身延山へ

日蓮は放免されたとはいえ、鎌倉幕府はその主張を認めたわけではなく、日蓮は鎌倉から身延山に入り、そこから日蓮宗の布教を進めることとなった。

 

 日蓮の主張は「立正安国論」に見られるように、正しい教えがない社会は乱れ人々は苦しむ、正しい仏教と正しい政治が一体でなければならないというもので、他宗派批判とそれを取り入れている鎌倉幕府批判であった。その政治性を持った主張、激しい論争と“折伏”というやり方は日蓮の考えの本質からくるものであり、批判者からは“天下の悪僧”といわれた。佐渡に来て“塚原問答”のあと「開目抄」や「歓心本尊抄」を著した日蓮は、佐渡でその教義を完成させた。そのため「佐前佐後」という言葉がうまれたが、身延山に入った日蓮は闘う僧から「慈愛に満ちた日蓮」と言われるようになった。佐渡で世話になった人々―なかには念仏を捨てない一ノ谷入道もいたが―への感謝の手紙などをみると優しい人情のあふれるものであった。


by rijityoo | 2019-04-15 14:19 | Comments(0)
佐渡・流人の歴史ー世阿弥ー

<世阿弥>

1、 観阿弥とともに「能」の大成

猿楽から能楽へ

世阿弥は室町時代の初め,1363年に大和猿楽結埼座の猿楽師・観阿弥清次の子(藤若丸→元清)として生まれた。12歳の時、父観阿弥とともに出演した猿楽で将軍・足利義満に見いだされ、以降、義満の寵愛を受けることとなった。平安期いらい猿楽は田楽とともに民衆の物真似歌舞・喜劇として盛んであったが、観阿弥は歌舞に幽玄さを加え、狂言を分離させるなど猿楽の革新を進めた。観阿弥も世阿弥も猿楽の優れた演者であったが同時に謡曲の作家として脚本をつくり(作詞、作曲)、座の責任者として演出(所作指導など)をし、その革新を自らの実践の中で進めた。


当時の貴族や武士の好みと幽玄美が一致し、世阿弥は「風姿花伝」を書くなどして、猿楽から「能楽」への道を大成していった。しかし、将軍義満が亡くなると次の義持は田楽を好み、世阿弥を遠去けるようになった。(注=田楽は豊作を祈る田遊びから始まったと言われ「田舎猿楽」ともいわれた。)

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世阿弥、佐渡配流

世阿弥は60歳で入道となり、長男・元雅が観世座を引き継いだ。将軍は義持から義教に変わったが、義教は世阿弥親子を嫌い、世阿弥の甥の音阿弥元重を寵愛した。世阿弥が義満の子で義教の兄の義嗣の寵愛を得ており、将軍継承をめぐる兄弟間の争いが影響したとみられている。後継者元雅が巡業先で亡くなり、世阿弥がその急逝を嘆いているところへ、義教は観世座4代目を音阿弥にせよと命じてきた。そのうえ世阿弥の佐渡配流をきめた。世阿弥が音阿弥に秘伝書を見せること渋ったためではないかとの見方が多いがはっきりしない。1434年、世阿弥72歳であった。


佐渡配流となった世阿弥は同年5月に若狭小浜から船出、能登半島をめぐり、佐渡の多田浦についた。順徳上皇や日蓮は越後の寺泊からの船だったが、世阿弥は越前若狭からであり15日か20日かかったと考えられている。その様子は、佐渡で書いた「金島書」に書かれている。そこには「雪の白山ほのみえて」と白山連峰のことを書き、「珠洲の岬や七島の、海岸はるかにうつろひて」と能登のことに触れ、立山や砺波山のことなども書いている。


2、 佐渡での世阿弥

京極為兼の旧跡を訪ねて

 世阿弥の「金島書」は7編の小謡からなっており「若州」「海路」「はい処」「時鳥」「泉」「十社」「北山」と内容は紀行文風であるが、青野季吉(佐渡出身の文芸評論家)はこれを「謡曲の文体で書いた私小説」と評価した。そこには佐渡に上陸してからの越えた峠のようすや立ち寄った十一面観音像のある長谷寺のことなどを記述し、新保という村の万福寺に到着したと書いている。


世阿弥は新保到着の翌月、真野湾の入江にある八幡を訊ね、先に流された京極為兼のことを偲んだことを「時鳥」に書いている。若いころに「言葉の幽玄ならんためには歌を」と和歌を学んだ世阿弥は高名な歌人だった為兼の配流のことを知っており、為兼の詠んだ

「鳴けば聞く 聞けば都の恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす」の歌にふれて

「声もなつかしほととぎす ただ啼けや 啼けや 老いの身 われにも故郷を泣くものを」

と書いた。為兼の歌にあわせて自分の都を思う気持ちの高ぶりを表しているよ   うに思える。

 

泉で―順徳上皇と「金島書」

 世阿弥が新保にいたのは3か月ほどで「配所も合戦の巷になりしかば、在所をかへて、泉という処に宿す」ことになった。「これは、いにしへ順徳院の御配所なり」と「泉」に書いている。このころ佐渡にも地頭が群雄割拠する状況があり、その争いと思われるが新保と泉は佐渡市になる前は同じ金井町に属していたことを考えると、そんなに大きな「合戦」ではなかったようである。

 

泉の配所は現在の正法寺とされており、そこから順徳上皇の配所「黒木御所蹟」は500メートもなく、世阿弥はそこを参拝し、「・・・天離かる 鄙の長路の 御住ひ おもひやられて 傷しや。

ところは 萱の軒端の草 忍ぶの簾 絶え 絶え也。」と偲んでいる(「泉」)。また、泉では「当国十社の神まします。敬信のため一曲を法楽す。」と十社という神社で能を舞った(「十社」)。佐渡で能を舞ったという記録はこれだけであるが、前記の青野氏などはもっと何回も舞ったのではないかと書いている。

 

正法寺には世阿弥のものと伝えられている能面が一つ残っているが、伝承も世阿弥の世話をした村民が世阿弥が「一人で舞っていたのをみた」といった伝承だけである。 世阿弥が「金島書」の7編を書き上げたのは1436年であり、その後の消息は定かではない。世阿弥は佐渡に流されていた日野資朝と阿若丸の話を謡曲「檀風」にしており、他にも佐渡在島中に書かれのではないかといわれる謡曲があるが、在島中に書いたという確かな根拠はないようである。


世阿弥を佐渡配流とした義教は専横な暴君的なところがあり「公卿貴人を70人も遠流籠居せしめた」といわれるが、1441年、その義教が暗殺されるとそれらの人々が釈放された。その時に世阿弥もいっしょに放免、京に帰り、2年後に81歳で亡くなったと考えられている。


盛んだった佐渡の能

佐渡には今も島内に34か所の能舞台があり、全国の3分の1を占める数といわれる。神社の拝殿と兼用になっている能舞台を入れるとかっては90を超えたという。しかし、世阿弥が島民に直接教えた記録はなく、佐渡に能が広がり定着したのは、江戸期の初代佐渡奉行・大久保長安の業績と言われている。長安は甲府武田家の能楽師の出で能楽師や囃子方、狂言師も連れてきたという。その能は相川から広がり、神事能として各神社の祭礼に欠かせられないものになっていった。今は能を奉納する神社などは少なくなっているが、薪能などの企画などは観光客向けも含めて続いている。狂言は鷺流狂言として広がり、県の無形文化財に指定され中学生などに伝承活動が続けられている。


佐渡の伝統芸能は能の他に佐渡おけさ・相川音頭などの歌と踊り、鬼太鼓、人形芝居などがある。いずれも村、部落ごとに伝承され、○○座といった同好組織や鬼太鼓の「鼓童」のような組織も活動している。「文弥人形」などもいまも定期的に上演されている。


<まとめにかえて>

   

歴史の理解には、地方(郷里)の歴史・出来事は全国あるいは中央の歴史・出来事につながっており、双方を見ないといけないことがよく分かった。「流人」は特にそうだが、縄文時代や古墳時代をふくめても地方、地域でどうであったかが重要だと思った。

 

承久の乱と順徳上皇

古事記や日本書紀を編纂し天皇の権威の確立を図った時代、摂政関白と武士の力に対し天皇が院政で対応した時代。承久の乱が「日本の歴史上唯一の革命」とか「鎌倉デモクラシーだった」と言われるのはなぜか。明治維新で復活し国家神道の柱とされ神格を持たされて昭和期の大戦を戦った天皇、人間宣言をして民主憲法のもと象徴天皇となった現在の天皇。立憲君主制か議会君主制か、そもそも君主制=天皇とはなにか考えさせられる。


日蓮

「釈迦の宗旨はなにか?」その真意を問う姿勢、人々の個人的悩みや希望のためだけでなく社会や政治の在り方と仏教(宗教)の在り方を追求したのが特徴。日蓮は「南都八宗」に分かれている仏教を批判したが、鎌倉の新興仏教を含め現在もその状況は変わらない。キリスト教のように「神」の存在を前提とする宗教でないからそれでいいのか?

宗教が個人だけでなく社会全般の在り方に関わろうとする時に起きる問題(イスラム過激派など)をどう考えるか。


世阿弥

世阿弥は猿楽の演者から作者・作曲家として多くの謡曲をつくり、その理念をふくめ能楽を大成した。佐渡配流の理由は定かでなく「利休と秀吉のように偉大な芸術家の宿命だった」といわれる。いつ赦免され京に戻り、何時亡くなったか確かな資料がなく「当時の猿楽師の地位の低さのため」と言われる。優れた才能や立派な業績がありながら流人となったため歴史に残らない人が多いなかで、世阿弥はその作品が生涯をかたっているように思われる。

  

   参考資料

    「定本佐渡流人史」 山本仁・本間寅雄責任編集 郷土出版社

    「佐渡歴史散歩―金山と流人の光と影」 磯部欣三 創元社

    「佐渡」 青野季吉  佐渡郷土文化の会 新潟日報事業社

    「かくれた佐渡の史跡」 山本修巳 新潟日報事業社出版部

    「佐渡島 歴史散歩」 監修・佐渡博物館 河出書房新社

    「承久の乱」 阪井孝一   中公新書 中央公論新社

    「日蓮」 山岡宗八  山岡宗八歴史文庫 講談社

    「日蓮の佐渡越後―遺跡巡りの旅」本間守拙 新潟日報事業部出版部

    「世阿弥」 今泉淑夫  日本歴史学会編 吉川弘文館

    「世阿弥配流」 磯部欣三  恒文社

   


by rijityoo | 2019-04-15 14:09 |  三水会 便り(5) | Comments(0)
You Tubeにアップした作品をジャンル別に
チャネル「NPO法人科学映像館」名でYou Tubeにアップした作品をジャンル別に区分しました。以下のURLにアクセスしhttps://www.youtube.com/user/MASAYOSHIKUMEGAWA/playlists 「再生リスト」をクリックしていただくと、ジャンル別の一覧表がありますのでご利用ください。ダブルブックとかピックアップできてないない作品もあり、・・・。
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by rijityoo | 2019-04-14 10:17 | 活動の蔵(1、208) | Comments(0)
3映画製作所の未デジタル化作品をピックアップ
東京文映、シブイ・フィルムス、古賀プロダクッションの未デジタル化をピックアップ。5月頃から公開予定。
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「北朝鮮に拿捕された米艦プエブロ号乗組員の記者会見」全10巻の内、第1巻をデジタル化。世界各国から記者が集められ、いろいろな資料を閲覧。その後、拿捕された乗り組員の記者会見への模様が収録されている。約10分、モノクロ、英語の解説。はてなです。

by rijityoo | 2019-04-11 12:01 | 活動の蔵(1、208) | Comments(0)